蝿蚊の恐怖・オタクの終焉

 朝起きて「中央公論」下書きの原稿でアタリをつけた発言に、インタビューの録音テープから正確に起こす。
  インタビューって、同じ一時間でも、たくさん話して密度があるときと、いつのまにか過ぎてしまうときってある。
  ところでいま気づいたんだけど、山崎貴監督はオダギリジョーに似ているんじゃないか。
複数の取材テープがあるのだが、江戸東京たてもの園の担当の方が思いのほか長時間熱く語ってくださったのも嬉しかった。
  合間にDVD「昭和30年代の日本・家族・生活」(桜映画社)の「都会のくらし編」を家族と見る。当時の蚊や蝿が人間の命をおびやかす天敵だったこと、そのせいでいまや郷愁の場所である「空き地」が危険な場所でもあったこと、ゴミは殺菌さえすめば平気で庭先に埋めて、見ようによっては家々で「自己循環」できていたこと、おそらくいまよりゴミは大地に還るのに不純物がなかったであろうこと、つまり自然の循環の中に人間が都市部でもいまよりずっとわかりやすく組み込まれていたこと、そしてそんな時代に「衛生」の概念が注入されいまに至っていること等々感じた。
  ロフトの斎藤さんから、明日やる岡田斗司夫さんのイベント「オタクis Dead」に関連して「岡田斗司夫が“オタクは死んだ”と言っていることについてどう思いますか?」を書いてというアンケートが。
  合間を縫って以下のような文面書いてみた。

 「オタク」というのは外から呼ばれるものであって、自分から名乗ったりすることはあんまりないんです。
 でも僕がそれを好きなことによって「オタク」と人から呼ばれがちなものは二重性がある、というか二重性を見出していたものでした。
つまり大衆、っていうか子どもが一回楽しく消費してオワリなものに、いつまでも重箱の隅をつつくようにこだわってしまっている。
いまのオタクが好きなものっていうのは違いますよね。
 最初から自分たちだけがいつまでも深く耽溺できるように、何十時間も違うラストに向けてプレイし続けることのできるゲーム。一回見ただけではわからない、深夜にアリバイのように放映された後にソフトが限定生産されるアニメ。
 ひょっとしたら、僕が特撮ものテレビだけはいまだに見ているのは、あれのメイン客は子どもだということは変わらないからかもしれません。いかにマニア人口がいると言っても、東映が最後にどっちとるかって言ったら自分たちじゃなくて子どもたちだと思う。そういう、自分たちが永遠に主客層じゃないっていう感覚が僕にとってのオタク性なのかも。
 アートやサブカルは特権性が持てる。こういうものが好きなのは自分たちだけだ、カッコイイって示せる。でも僕が好きなものはガキの残りカス。永遠に完全には自慢できない。
 でも僕は、そういった、子どもたちとか大勢の人間が一回簡単に通過しうるものにしか細部への情熱すらもてないんですよ。なんでだろう。
 いまのオタクが好きなものはあらかじめ自分たちで特権性が持てるとわかってるものでしょう? これが好きならもう女にモテなくてもいいとか。そういうのは本質的にはサブカルと変わんないというか、見た目が多少違うだけなのかな。どうなんだろう。

 以上書いてみたが、あまりにも長いので以下のように短く変えて出した。
 「僕にとってオタクとは子ども向けメディアに執着する大人のこと。初めからオタクだけを相手に商売するものには興味が持てない。そのボーダーが見えなくなったら僕にとっての『オタク』も意味をなさないだろう」。