『祖谷物語 −おくのひと−』7日よりアンコール上映

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今日はその前に、以前、第7号の「日本映画ほぼ全批評」で書かせて頂いた『祖谷物語 −おくのひと−』のレビューを、同作品の6月7日(土)からのアンコール上映を記念し、全文公開することにします。


■祖谷物語 −おくのひと−

徳島県三好市の山奥で動物を狩って生きている老人と、一緒に住む高校生の少女。
車の転落事故から一人だけ生き残った赤ん坊を老人が引き取って以来の、二人だけの暮らしだ。

現代日本版の『アルプスの少女ハイジ』とでも言ったらいいのか……この映画の監督はジブリ映画が好きだと表明している。夏・春・秋・冬と移り変わる自然の中で暮らす少女。自らの故郷の奥地でロケし、いまどき珍しく全編フィルムを用いた深度のある映像で展開している。

監督はまだ二十代だというが、自分が育った世界の背後にある山を、映画というアプローチで探っていくような、骨太なロマンがそこにはあるのかもしれない。ある意味、理想的な舞台を得たといえる。

老人役の田中泯は、劇中一言も喋らない。役名もはっきりせず、ただ「おじい」と呼ばれる。雪の中を歩き、銃を構え、動物を捕まえて、畑仕事をし、夜は飯を食べ、身体を洗って寝る。

少女役の武田梨奈も、いつもはアクションものが多いが、本作では派手な動きではなく、両肩に薪を背負って急坂を上り下りするような、さりげないかたちで身体能力を発揮している。一時間かけて山を下って学校に通い、放課後はおじいの畑仕事を手伝うのがヒロインの日常なのだ。

人間の芝居は、それ自体が中心というよりは、自然の風景の中で捉えられ、少し前の時代の暮らしぶりのドキュメント映像的な要素もある。

そうでありながら、かかしのような人形が動き出す瞬間を見せたり、「バクテリアン」という汚水を浄化するマリモのような物体が出てきたり、老人の身体が次第に苔のようなものに覆われて死期が近づいていったりなど、マジック・リアリズムもかくやという描写も時折挿まれる。

だが、自然の中の雄大な構図の前では、それら奇想も浮き立たず、また作品の方向を強く意味性に引っ張ることもなく、まるで雪の日の蜃気楼のように、三時間近い上映時間の中に包含されていく。

主な登場人物は3人だが、前述の2人に加えて、東京から移り住み、老人たちの家の近くで自給自足生活を試みようとする青年(大西信満)が描かれる。都会と自然の中間的な存在の彼が、途中ボロボロになりながらも、やがては老人となり替わるような存在となっていく……かに見える。しかしこれも、雪の中で彼の暮らしを垣間見た側が作り出した一瞬の幻影かもしれない。

このように、本作は、意味性、象徴性すら「人間にとっての自然」だけではなく「自然にとっての人間」という逆方向から相対化される。

これは、ハナからテンポ早くタイトに見せ場を配置する娯楽映画的な構えでは、作られていないからこそ成し得たものだろう。

いくつかのモチーフ的な描写の導入は、作り手にとって、自分達人間の、自然の中での異物性に対して、敬虔に意を払おうという、いわば一つの関わり方の作法なのかもしれない。

この映画には、タルコフスキーテオ・アンゲロプロスの映画のような風格がある。しかもその風格が、単なるこけおどしになっておらず「こうでなければ語れない」次元に観客を立ち会わせることに成功している。

面白おかしく、アッという間に見れる娯楽作品もいいけれど、その一方、本作のような雄大な語り口の映像叙事詩が、我が国で、それも年若い監督と彼を支える若きスタッフによって実現したことは嬉しい。


監督 蔦哲一朗
脚本 蔦哲一朗 上田真之 河村匡哉
撮影 青木穣
出演 武田梨奈
田中泯
大西信満
村上仁史 石丸佐知 クリストファー・ベングリニ
山本圭祐 小野孝弘 三輪玲華
城戸廉 森岡龍 河瀬直美

公式サイト http://iyamonogatari.jp/contents/news.html

6月7日(土)〜20日(金)
渋谷ユーロスペースにて
http://www.eurospace.co.jp/detail.html?no=569
連日18時より2週間限定アンコール上映