シベリア少女鉄道

 シベリア少女鉄道という劇団の「スラムダンク」という芝居を新宿シアターサンモールで見た。内容の性質上、「激ネタバレ厳禁」の作品なので、仔細を具体的に語るわけにはいかないが、見た後は知的なスポーツをしたような気分になった。
 おおまかに言えば「ドラマの解体」なのだが、それだけ言うと60〜70年代の前衛芝居を思わせるかもしれないけど、ドラマを解体すると同時に、それを構成していた同じ要素を活かしながら、いつの間にか違う達成感にすり替わっているというキモチ悪いキモチ良さ、運動性それ自体というところが新しいのではないかと思った。
 現実にも、目的があって移動しているのに電車に乗って移動していること自体が気持ちよかったりすることはある。資料をコピーしているとそれ自体が気持ちよくなったり。

 以前僕の大好きな本「晴れた日に巨大仏を見に」を書いた宮田珠巳さんと話していたら、彼は内田百閨の「特別阿呆列車」のような文章をいつか書きたいと言っていた。
 「特別阿呆列車」は日本の名随筆のひとつといわれているが、ただ列車に乗っているというだけの文章で、それもとくに自発的というのでもなく、車窓からなにかいいものを眺めるわけでもなく、車内で面白いハプニングが起きるわけでもない。しかも目的駅に着いたらすぐに折り返してしまうのである。
 移動しているというだけで、ほとんど内容がないのに読ませてしまう。ライターとしての究極はその域なのではないかという話で盛り上がったことを思い出した。
 
 だけど今度の芝居は見ているほうは流れる時間の中でその解体を受け止めるが、やる方は大変である。細かい細工が非常に多く、役者は瞬時に何度も着替える。パフォーマンスそれ自体より構造で笑わせるのだからパーツはあくまで真面目になりきって演じなければならない。錯綜したときに見ている側が一発でわかるようにやや過剰にキャラを立たせるが、同じテンションでずっと演じ続けることは出来ず、それ自体を瞬時に切り替える。
 あくまでナマモノの演劇だからカットの切り替えをするわけにいかず、役者の方が動くことで計算されたテンポに合わせていく。
 作・演出のコマになり切る作業が、しかしライブで行われているという緊迫感それ自体をタメ息をつきながら見る――二重にも三重にも刺激的な芝居だった。