自分はこうでしかないんだ


  産経校了。ゲラの直しなし。ニャン2からもゲラ来るが、データ開けず。

  今日は講義が二つ、そのあとに柳田國男のウイークデイ発表会がある。発表会は自分の担当ではないが、いずれにしろ長丁場なのでドロップを買ってまめに舐めることにする。
  高校の講義は社会時評を書こう!という内容。雑誌の投書欄とプロの書き手の論説を読み比べて工夫されているところを指摘。あとはちょうどいま論議になっているので、9条関係で立場の違う人の原稿を紹介。中に自分が朝日新聞に書いた「憲法と主体性」も入れた。ここで書いたことは当時浅田彰田中康夫から賛同を受けたことを思い出す。田中康夫は知事としての公開された議会での発言でもこの原稿を引き合いに出してくれた。それはうれしいのだが、その際僕について「わが友人でもある切通理作」と言っていて、僕は彼と、会うことを含めて直接やりうりしたことはないのだが・・・・・・。でも物書きとしては、係累ではなく内容に関する連帯の挨拶として喜ぶべきことなのだろう。
  
  大学の講義は音楽をモチーフに小説を書くというもの。前にもう卒業生となった学生が出してくれたブランキー・ジェット・シティの「15才」をモチーフにした小説をテキストにする。プロ作家としてではなく、一人の成長期の人間が、その一回しか書けないものもある。それを感じさせてくれるテキストだった。架空の街ジェット・シティに脳内で行けたと思っていた時期。それは遠くなってしまったという感じを持っていたけれど、卒業して何年かたったいま、何気ないときにふと自分の中に残っていることに気づくことがあるという。

 あと「明日に架ける橋」をモチーフにした橋本治の「S&G グレイテストヒッツ+1」に収録された小説もテキストにする。「君のためにできること」を堂々と歌い上げる万能感バリバリの原曲に、橋本治は介護される側である車椅子の少年を主人公にした小説で応える。
 橋本治はものをかくときに自分以外の人間になりきることができる。そしてその世界に放り出された自分が、しだいに言葉を獲得して、「自分はこうでしかないんだ」と捉える瞬間が必ず存在する。そのスパークに力づけられる。
 
 学生に課題として出した小説が提出されてきた。読むのが楽しみだ。


 柳田会は東京財団のアニメ評論賞も受賞した井上加勇くんの発表。テーマは「柳田國男大塚英志」。力強い声で、井上君の用意した独自のテキストもからめてあり面白かった。「日本のドイツロマン主義の反映のありよう」をアニメとクラシックを駆使して見せていくのは楽しかった。
 自分としては、伝統主義とナチズムはどこで分けられるのか、伝統主義即ナチズムなのか、ということを知りたいし考えてみたいと思った。たとえば「遺伝」という言葉を不用意に使うのは現代では差別問題につながりかねない。だがかつての日本人が、伝統が遺伝するという価値観をベースに持っていたとして、それを現代の価値観でどこまで批判できるのか、気になるのだ。へたをすれば、後になってからの視点で「あいつもナチス的だ」「こいつもナチス」とレッテルを一方的に貼り付けることにならないか。戦後になってから、鬼の首でもとったように文化人の戦争協力的な言辞を掘り返すように。
 とはいえ、いまの段階で大塚英志がそうだと決め付けている訳ではない。今回の大塚の柳田四部作、最初の三冊については「現代詩手帖」に書評を書かせていただいたが、そこでは自分の汲み取れる価値を集約させてみた。四冊目で出たばかりの「偽史としての民俗学」もまだ読みはじめたところ。
 われわれの柳田読書会だって、まだ始まって一年。そもそもまだ他人に意見できる段階ではない。とにかくいまは、いろんな人の考えを入り口で拒絶することなく、可能性としての補助線を多様に持ちながら柳田のテキストを読み進めていこうと思う。

 柳田会終わったあとはかるく呑む。最近の打ち上げは高円寺文庫王国でも書いた石狩亭が多い。ここのゲソわたは安くてうまいが、ひとつきになるのは、ゲソと上に載っているわたは別々に用意されたものなのか、そのイカから出たものなのか、ということ。あのわたの多さはどうも前者ではないかという気がするのだが・・・・・・。