明日、阿部嘉昭さんとトークショー第二弾
いよいよ明日、阿部嘉昭さんの出版記念トークショーにゲストで出させていただきます。
阿部さんは昨年10月、拙著『情緒論』のトークショーにゲストで来ていただきました。今度は僕が逆の立場になるという構図です。
阿部さんの今度の新刊、mixi日記を集めた『僕はこんな日常や感情でできています』、晶文社から刊行されています。
いま、明日うかがいたいことをメモしているのですが、大きな文脈から外れたようにみえる部分でも、印象的なフレーズがいくつも出てきます。
「ただただ歩いて、俗悪さももてないままに寂れた温泉街の景観を、眼底の底にしまいつづけた」
ここには、遊歩者の疲労といったものが出ています。「眼底の底」という二重の強調は、レトロや悪趣味という言葉ですら捉えられない領域を指し示しているかのようです。
「たとえ『詩句のまずしさ』のようなものがあったとしても、それすら意図的に選択されたものと判断せざるをえない。
どういうか――一行に現れる語の選択は、まず『現実典拠』を擬制する。それは彼の生そのものの貧しさの反映だから譲れないのではないか」
これは高校生でデビューした久谷雉という詩人について語ったくだり。ここでの「現実典拠」は擬制であると言っているのに、しかし「彼の生そのもの」の反映だとくる。しかもそれは「貧しさ」ゆえに「譲れない」。表現が生起する場所について促されます。
「詩語」への平坦な信頼など久谷雉には何ひとつないのだった。一個として自体的な安逸に耽る言葉がない」
俺は俺で自足する、という「自体的な安逸」はむしろ既成の、立派に見える「詩語」を用いることによってもたらされる。それは「平坦な信頼」にすぎないというのです。
「以後、ロック全体の退潮によって、ルーからも作曲能力が剥落してしまう」
これはルー・リードについて語ったくだりですが、表現者というのはその人がいくら優れていても、時代の加勢がないとその人の内側にある能力すら失ってしまう。しかもそれは「剥落」、外側から剥がれ落ちるようになくなってしまう。表現というものの持つ、内と外の呼応性に促される記述です。
明日は「語っていくことの手前」にあるものについて、『情緒論』のトークショーからも連接した領域を語っていければと思います。
皆様ぜひおいでください。
ブログ、本、人、作品……現代のカルチャーを語るということ
阿部嘉昭 × 切通理作
■2008年1月18日(金)18:30〜
会場:ジュンク堂書店 新宿店8F喫茶
入場料:1000円(1ドリンク付き) 定員40名
■お申込:ジュンク堂書店新宿店7Fカウンター
お電話(03-5363-1300)でもご予約を承ります。
阿部 嘉昭(あべ かしょう)
1958年東京生まれ、鎌倉で育つ。大学卒業後、編集プロダクション、映画製作などに携わった後90年、キネマ旬報社入社。同社退社後、評論活動を開始。早稲田大学非常勤講師、立教大学特任教授も務める。著書に『精解サブカルチャー講義』『実戦サブカルチャー講義』『成瀬巳喜男』(河出書房新社)、『日本映画の21世紀がはじまる』(キネマ旬報社)他多数。近刊に『昨日知った、あらゆる声で』(書肆山田)、『マンガは動く』(泉書房)。
阿部さんのブログでも紹介されています。
http://abecasio.blog108.fc2.com/
明日は僕の『情緒論』と、今度の阿部さんの本の中でもご紹介いただいた『サンタ服を着た女の子』も販売します。合わせてぜひ!