音楽を語るということ

   阿部嘉昭さんとの18日のトークショーのご報告です。
   今回も充実した内容でした。おいでくださった方、ありがとうございました。

  トークショーでも話したのですが、阿部さんは今度の『僕はこんな日常や感情でできています』においても、対象としてもっとも優位に置くのは「小説」でも「映画」でも「漫画」でもなく、「音楽」です。視覚的に位置関係を見渡すことが出来ず、瞬間瞬間耳が捉えるものを追いかけることでしか体験されない「音楽」。

 そこを語ろうとするとき、よすがになるものは、歌であれば「歌詞」ですが、音楽批評が歌詞批評に留まることの限界はよく指摘されます。だとしたらどうすればいいのか。音符をそのまま載せるという手もあるでしょう。しかしこれでは読者が「音符が読める」ことが前提になってしまうし、また譜面は譜面であり聴覚体験そのものの、聞いているその時に浮かび上がっては消えていくものを捉えることにはなっていない。

  実際の阿部さんの本から、どうやっているのか見てみます。
 
 ―そしてコーラス部では重いドラム音が消され、トレモロと打刻を繰り返すタンブリンが代位する。それは進もうとするバンド音に歯止めをかける、最小のディレイ装置として機能し、そこでも「それ自体の残像」が重ねられる。

  つまりは、バンド音は時間的直進性ではなく、空間的重複性を現出させようとしている。―

  この記述は、まさに耳でその時その時体験していることが、よみがえってくるような記述に感じられました。
  そして私には、自分が先日のモノ学の発表でも引用した、川端康成の次の一節の想起がもたらされました。

 ―娘の脈打つ手首がのっているので、私は自分の心臓の鼓動を意識する。それが一つ打って次ぎの手を打つ。そのあいだに、なにかが遠い距離を素早く行ってはもどって来るかと私には感じられた。そんな風に鼓動を聞きつづけるにつれて、その距離はいよいよ遠くなりまさるようだ。そしてどこまでも遠く行っても、無限の遠くに行っても、その行くさきにはなんにもなかった。なにかにとどいてもどって来るのではない。次ぎに打つ鼓動がはっと呼びかえすのだ。こわいはずだがこわさはなかった。―(『片腕』より)

 私には、音楽批評として書かれているわけでもないこの一節が、阿部さんの先の引用と響き合って感じられたのでした。鼓動という、自分の内にあるはずのものが、遠くにある。トークショーでこの一節を阿部さんの本からの先の引用と並べて朗読したら、阿部さんは「音楽とは鼓動だから」とおっしゃいました。

 近さと遠さ。遠さを表現するものは、「音」である。視覚すらも聴覚に影響される。聴覚を聴覚として区切って受け取ろうとするのではなく、そのものにある「近さと遠さ」を体験すること。

 私にとって、またひとつ扉が開いたような読書体験であり、トークの機会でした。