戦争と棄民〜8月15日に問う


今日は8月15日ですが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
以前からお伝えしている通り、私の次の本は長崎で被爆した母との対談「85歳の被爆者 歴史を消さないために」。爆心地1.2キロメートルでの被爆の実相。その時何があったのか。そして何が始まったのか。もし興味を持たれた方は、以下の文ご一読下されば幸いです。→http://t.co/gg4C7EaSox
この本の事もあって、ここ数日、敗戦や被爆の事を扱ったテレビ番組を複数見ていました。

NHKスペシャルで放映された、『きのこ雲の下で何が起きていたのか』という、広島の爆心地にほど近い御幸橋という場所で、投下から3時間後に撮られた写真を解析した番組は印象的でした。

私の母は長崎で1.2キロの距離にて被曝したのですが、2キロ以内は「壊滅地帯」と呼ばれ、1.2キロは2人に1人が亡くなった距離だ……と説明されます。

御幸橋は爆心地から2キロメートルの場所にあります。
この写真は現在の御幸橋のたもとに飾られています。

被爆での死者の多くは火傷でしたが、熱いからと川に飛び込んで死んでいく人も多数いました。

原爆で「フラッシュバーン」という、皮膚が裂けて垂れ下がる状態になれば痛覚神経がむき出しになり、その痛みは他にたとえようがなかっただろう……そうした事も写真から読みとる事が出来ます。最新医学含めた専門家の分析が語られます。

番組はさらに、写っている人々を特定し、この日橋を渡った人含め総勢30名から証言を得て、複合的に事実を再現します。

そして、写っている人の多くが子どもだったという事実に焦点が当たります。

戦地に行った大人の代わりに、工場などで労働していたからです。広島の被爆者でもっとも多かったのは13歳前後の子ども達だったのです。
2キロ圏内の中学生は、およそ8千人居ました。

むろん長崎も同様です。
「もちろん、学徒だけの犠牲だけではなく、全部の犠牲者に痛みを感じますが、14歳や15歳の子供が学業を捨てさせられ、 工場労働を強いられて、あげくに原爆死というのはあんまりだと思うのです」という、私の呼びかけ文で引用した母の手記にある文言(http://t.co/gg4C7EaSox)と、これは重なります。

御幸橋では、救助に来た日本兵が、成人した若い男を優先的にトラックに乗せ、「女子供は後回しだ!」と、乗ろうとした女の子をシャットアウトする場面に出くわした男性の証言もありました。

そうやって拒絶され、行き場のなくなった少女が、両親を亡くした街の炎に向かって駆け去っていくのを見て、自分は何も出来なかった……と後悔の証言をする、当時20歳の、その男性。

「大人なら、自分たちが戦争をしているのだから仕方がないと言えるかもしれない。しかしそういう子どもたちは、何の罪もないのです」といまや老人になったその男性は言います。

「助けを求める小さな声さえかえりみられない戦争の現実があったのです」というナレーションが付されていましたが、ここには、善い、悪いでは片づけられない、まさに戦争の「現実」があったのだと思います。

「戦争」をしている以上、兵力になる人員を優先的に確保する事は、間違っていないからです。

問題なのは、そうなってしまった時の、民衆が置かれる状態です。
弱い「女子供」は、見捨てられる――「戦争」である以上、このような事になるというのはひとつの必然であるという事を事実として認識したうえで、未来に生きる我々は、これからを選択しければならないのではないでしょうか。

被爆した人の多くが、自分や自分の家族の事で精一杯で、周りで苦しんでいる人達を見ても、どうする事も出来なかったという「深い悔い」を抱えて生きてきたと語っています。

その後悔の念は、その場に居合わせた人々のみの「トラウマ」として片づけられるべきものなのでしょうか。そういう状況を呼び込んだ、そしてこれからも呼び込む可能性のあるすべての人間が、問われなければならない事ではないでしょうか。

それはむろん、核兵器そのものの使用に関しても、同じです。

あの日御幸橋に集まっていた、負傷した人々の写真は、民間の日本人によって撮られたものでしたが、アメリカによって没収され、公開が禁じられていました。

投下7年後、1952年の『LIFE』誌に載ったのが公表された最初です。

写真が公表されなかった7年の間、アメリカ国民は「核兵器が必要だと思うようになった」と番組ナレーションは解説します。

「この写真を見たら、核兵器は許されるものではないと、アメリカ人も気づいたはずです」というアメリカ人自身の証言を番組は紹介します。

もちろん、それは甘い認識だという声もあるでしょう。

核兵器の問題はパワーバランス的に考えると、廃絶は現実的でないという判断は無視できないと私も思います、しかしそういう状態になるまでの段階で、アメリカ国民自身のメンタリティにとって「被爆の隠蔽」が必要だったとみなされていた事を、我々日本人は、決して忘れてはいけない。

そして日本は、核兵器を持たない代わりに原発を持つ事を、アメリカから推奨されてきました。

作家の福井晴敏さんは、『小説・震災後』という作品で、こういうことを書いています。

東日本大震災の時、東京でその揺れに出くわした人々は、しばらくの間、その日どこでどう過ごしていて、どのように家に帰れたのかなどを語り合った。
けれどその後、被災地の人々の終わりの見えない苦難や、原発事故の予想外の大きさに圧倒され、ビルディングひとつ倒壊したわけでもない、東京で感じた揺れなどに拘泥するのは小さなことだとばかり、記憶の片隅に追いやってしまった。

しかしあの時感じた「地面の揺れ」が記憶の中で再現される時に、人々が無意識に読み込んだものがあるのではないか?

原発の千本以上の燃料プールに注水が成功するまでの数日間、日本の国家は、国民保護の原則を放棄し、それがもし失敗した最悪の場合のことを秘匿して、東北・関東全域の避難勧告を出すことをしなかった。否、やろうと思っても出来なかった。

その時、それまで守られて当たり前だと思っていた「平和と安寧」は崩れた。一時とはいえ見捨てられた……つまり<可能性としての棄民>を我々は経験したのだと。

それがあの「揺れ」の時に決定づけられた……のだと福井さんは言うのです。いくら表面をその後の日常で糊塗しても、あの足元がぐらついた不確かな感触は憶えている。もはや無辜の民ではいられない時代。

これから原発の再稼働を容認していく社会に生きる我々大人達は、その同じ罪を背負う事になります。

その時、自分を<無辜の民>だと言っていいのは、まだ年端の行かない、子ども達だけだという事を忘れてはいけません。

我々大人たちは、3・11以降の現代社会で、既に子どもたちを被爆させてしまっているのですから。

私の呼びかけ文のタイトル「『被爆者』が日本に一人もいなくなる日も近い」は、正確には「『原爆被爆者』が日本に一人もいなくなる日も近い」」が正しいでしょう。

母は若い世代が被爆する社会を作ってしまった責任を、被爆者として感じました。

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原爆の被害をうけた唯一の国、日本が、原子力を使った発電所をつくってしまったことに、私は大変ショックをうけました。
どうしてもっと反対しなかったのだろう。危険だと思いつつ、『平和利用ならいいではないか』と、ばくぜんと思っていました。
反対はしましたが、それは真剣さが足りませんでした」(母の手記からの引用より http://t.co/gg4C7EaSox
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70年前に原爆が落とされた意味、その後一週間待たずして始まった戦後社会で隠蔽されてきたものの意味を問う事は、我々一人一人の立ち位置を認識する事につながります。