カオリナイトで危ない写真集を見た
「カオリナイト」というスペースで、飯沢耕太郎さんが危ない写真集についてトークするというので友人と見に行った。
カオリナイトには、一ヶ月ほど前にも訪ねたことがある。近所の古着屋の二階にとつぜん現れたスペースなので、好奇心で覗いてみたのだ。
飯沢耕太郎さんの名前があったから、最新の写真家の作品集が飾られているのかなと思ったが、さにあらず、渋沢龍彦を受け継いだような、猟奇コレクションっぽい世界観で統一されていた。
圧巻だったのは、世界各国の絵葉書を集めたコレクションだった。写真評論家というから、記名性のあるアーティストの作品が関心のメインなのかなという、こちらの前提がくつがえさせられた。
「この人は、とにかく<写真>がすきなのだな」と思った。普段は行かない国の地方の観光地で売られている、誰が撮ったのかもわからない写真までコレクションして小宇宙を作っているのだから。
評論家である前にコレクター。これはいいなと思った。
いまの時代、ネット社会になっているから、個人がなにかを集めるとか、知識を増やすとかっていうことに懐疑的な目が向けられている。だがそれは、実用性を重視するからであって、コレクション自体に引かれる心性というものは、目的意識を超えたものとしてあるのではないか。コレクションはデータベースとは違うのだ。
さて本日のトークのテーマは、ズバリ「コレクションの魔」について。
人はコレクションにどうして取り付かれるのか。
それは、世界を作り変えたいという願望ではないかと飯沢さんは言う。「ニセモノの王国」作りがコレクションなのだ、と。
人間は誰でも、生きていくうちに、自分のイマジネーションと現実のズレに耐えられなくなる。だから別世界が必要になる。
それは現実の世界の原理である、有効性と効率からは、なるべく外れるモノがいい。
役に立たないモノ、意味のないモノを集めるのは、世界をオブジェ化することである。世界を役に立たないものに変えてしまう、ひそかな革命なのだ。
コレクターには男性が多いのはなぜかということについて、飯沢さんは渋沢のオブジェに関しての色んな文章をコレクションした本から引く。ペニスは玩弄物。男の子の無用のオブジェだからではないのか、と。
さて写真はコレクションの対象として非常に優れていると飯沢さんは言う。
イメージだけど物質そのものではないから、オブジェとして優れている。
たとえばルイス・キャロルの少女コレクションは、少女をオブジェに変えて保存することで、少女誘拐犯たることを免れている。
写真は、何かの代替物である。
どんなものでも、一枚の紙にしてしまう。
他のコレクション(たとえば人形)のように場所をとらない。
保存性が高い。百年でも持つ。
アルバムでアルファベット順に整理できる。標本と同じ。
コレクターには、その対象でなければならないという人と、コレクションという行為そのものにハマる人とがいる。
飯沢さんはさまざまな写真集を紹介しながら作り手のコレクターぶりを示していく。
コレクターの心理には、「人に見せたい」というものがある。共有されている欲望であることが求められるのだ。
つまりコレクションされたものを見るということは、個人を超えた集合無意識を見ることにもなる。
たとえば横尾忠則が滝の写真を集めた本があるが、世界中で滝の絵葉書が存在し、観光地になるということには、そこに共通のイメージがあるのではないかと飯沢さんは言う。
他にもメキシコの無名の人たちが作った祭壇ばかりを集めた飯沢さんお気に入りの写真集は、その家の人間までひな壇に飾られているように見えて、味わいがあった。
最後に飯沢さんが近年凝っている「キノコ切手コレクション」を開陳。
世界各国の切手の中でキノコを絵柄にしたものだけを集めているという。中でも出来がいいのは、社会主義国のものらしい。
写真集というと、即個性の表現だとか、アーティスティックイコールオリジナリティと捉えがちだが、根本にさかのぼってみると見えるものがあるのだなと勉強になりました。