Oldies but goodes! 原田昌樹監督

  いまだに感情が追いついていかず、どう書いていいかわかりません。
  でも、昨日お葬式が終わり、ここで自分なりの気持ちを書き記していくことも、必要かと思います。


  原田昌樹氏。長野県の追分で生まれ、長野県を転々としながら育つ。2月28日、心不全でご逝去。52歳でした。


  東映の教育映画の助監督として映画の世界に入り、その後特撮シリーズ「宇宙鉄人キョーダイン」「小さなスーパーマン ガンバロン」や森村誠一シリーズなどで助監督をつとめる。とくに「Gメン75」での、過酷かつ丁寧な<テレビ映画>の作り方は経験として大きかったという。1992年、松竹芸能・ABCによるテレビ映画シリーズ「裏刑事(うらでか)」で監督デビュー。

 和泉聖治監督のチーフ助監督として知られ、「この胸のときめきを」には、のちの監督作品での、オールディーズのナンバーをいまの青春映画に重ね合わせる<オールディーズ バッド・グッディーズ>の作風の萌芽がみられる。

 Vシネマで監督作品を次々と発表、1997年3月22日放送の、ウルトラマンティガ「青い夜の記憶」でウルトラシリーズを初演出。以降、ダイナ、ガイア、コスモス、ブースカなど、円谷プロダクション製作のテレビ番組を数多く手がける。「ウルトラの星」「少年宇宙人」「遠い街ウクパール」「雪の扉」など、SF色の強いシリーズの中でファンタジー色の濃い異色作も手がける。ティガでデビューした脚本家・太田愛氏とのコンビはとりわけ印象深い。
 松竹制作の下町人情ヒーロー番組「魔弾戦記リュウケンドー」のメイン監督を務める一方、旅情あふれる長編劇映画「旅の贈りもの 0:00発」を発表。派手な作品ではないが静かな支持を受けていた。


 
 僕は平成ウルトラマン初期三年にかかわったスタッフ・キャストの皆さんの証言集に批評を加えた『地球はウルトラマンの星』という本で初めて原田監督とお会いしました。
 あのときは三時間以上もお話を伺い、喫茶店の冷房が寒くてアロハで半袖の監督に申し訳ないと思いながらも、面白いエピソードについ先へ先へと質問を重ねてしまいました。

 そのときの原稿のタイトルは「Oldies but goodes! 時代に合わせた作品ではなく<いつかどこかで見たもの>を」でした。

 その後、原田監督とは幾度かお会いする機会がありました。インタビューでお会いした方と、その後も交流が続くということは、意外にないものです。けれど原田監督は旅行先で見た風景をメールで送って下さったりと、気さくに交流してくださいました。たぶん、そのような形で監督のお人柄に触れた方は少なくなかったのではないかと思います。

 「魔弾戦記リュウケンドー」の最終回で、これまでの登場人物&スタッフが一か所に集結し、皆で主題歌に合わせて踊るというカーテンコール的な場面があります。
  この撮影を「楽しくて、いつまでも終わりたくなかった」と監督は振り返っていました。

  「ウルトラマンティガ」の時にも、番組の作業が終了した後にスタッフ、キャストで行った小旅行でのことを『地球はウルトラマンの星』で振り返っておられます。
 「何もない海で遊んでいて、日帰りだったんだけど、夕方、海だから陽が沈んでいくのが見えるじゃないですか。沈んでから一時間ぐらいね、み〜んなで海をボーッと見てたんですよ。だ〜れもね『帰ろう』って言わないの。『真っ暗になっちゃうよ』とかって思ってたんだけど、なんかね、すごい貴重ないい時間だなと思って。『こういう空間を共有できるんだな』と。(中略)これで帰ったら、もう同じ時間に戻れないじゃないですか。なんとなく去り難い」

  お葬式でお見送りした後、参列者の皆さんがみんな立ち去りがたく、それぞれ立ち話をしていて、自分もその一人だったのですが、誰ともなく「いま監督はここに来てるんじゃないか」と囁き合っていたのが印象的でした。

  お通夜が終わった後、太田愛さんから、監督行きつけのバーに行きましょうとおっしゃっていただきました。そのお店のことは、僕も監督から何度となく聞いていました。監督ゆかりの方たち幾人かと向いました。

  愛用のボトルには寄せ書きがありました。この中に自分の名前が記されることがないのが、さびしいような気がしました。スタッフでもなく共働者でもない自分にそんな資格はないので、僭越きわまりないのですが、そのときの自分の気持ちが勢いそう思わせてしまったのでしょう。
  駅前に何もないような、監督が以前住んでいた場所の近くにあるバーなのですが、ここにまで呼べる仲というのは、監督にとって相当近い仲ということになります。

  ボトルにお酒を足して、皆で献杯しました。
  太田さんが「今日ここにお誘いしたのは、ボトルに名前を書いていただきたかったから。原田さんは喜ぶと思いますよ」とおっしゃって、ボトルに名前を書き込む白いペンを回してくださいました。
  
  「監督はここで映画談議をするのが大好きだったんです」
  話題は自然と映画の話になりました。原田さんがどんな映画を好きだったか、黒沢明ではどの作品が好きだったのかとか……。
  「原田さん、きっとここに来てるよ」と、一人の方がおっしゃいました。

   折しも、円谷作品の特撮ステージとして使用されていた撮影所・東宝ビルトが閉鎖され、円谷プロダクションの木造の旧社屋や怪獣倉庫も取り壊され、いずれも原田監督は目の当たりにされています。

   ひとつの時代は終わったと、原田監督もおっしゃっておられました。でも映画を作ろうとする意志は、原田監督との有形無形のつながりを持つ人々の間で、絶えることはないでしょう。
   そして自分も、それを語り継いでいける一助となる仕事をしていきたいと思います。

   原田監督、ありがとうございました。
   そして、これからもよろしくお願いいたします。