ラピュタ阿佐ヶ谷での

  
 
    
    鈴木義明さんの発掘フィルムによるオールド・ピンク映画を見に行く。日曜日の初日である内田高子さんのトーク付き上映には事情で行けなかったので、今日は映画のみの鑑賞。
    67年の作品で、「ピンク映画」といっても、オールヌードは出てこない。主演の内田高子に至っては、セミヌードすらもない。
    鈴木さんはこの時期の映画を、いまのピンク映画と同じものとは捉えられないとし「日本セクスプロイテーション」映画という定義付けを行っている。
    もちろん、これは当時の表現規制と無縁ではない。
    
    冒頭、悲愴感を煽るような音楽に乗って、人力車を引く男と、もう一人の男が走ってくるのが併行して捉えられる。それぞれのUPの後、引いた絵で、一緒に走っているのがわかる。
    やがて旧家に着くと、人力車から降ろされ、門から入ろうとした花嫁衣裳の内田高子は「ここじゃない」と言われる。
    「お前はこっちからだ」
    横の通用門から入らされる内田高子を、門の内側からいかめしい顔で凝視する老婆。姑である。
    男が、人力車を引いてきたもう一人の男に「もう帰っていい」と告げると、はっとする内田高子。
    「お父さん……」
    ここで、人力車を引いていたのは彼女の父親であることがわかるが、彼は、今日限り娘のことは忘れてもらおう、と言い渡されるのだ。
    
    この、出だしのなんとも不穏な空気。彼女にとって、決して祝福されない人身御供的な結婚であることを雄弁に語っている。

    「普通の身体ではありません」と、これから初対面となる夫について言う姑。やがてその「普通ではない」夫の待つ奥の間に入るまでのモノモノしい雰囲気は、これからどんなおどろおどろしい展開になるのかと思わせずにはいられない。
    ちなみに、この映画は基本モノクロで時々パートカラーになるのだが、まさにこの「奥の間」に入ったとたんにカラーになるのがドキッとさせられる。
  
    この頃のピンク映画は、今回他の日に上映される西原儀一の監督作品もそうだが、今で言えばホラー映画のようなショッキングな見せ方で、不穏な空気を醸し出す。それによって、場面としては特別露出度は高くないのに、なにかとてもいけないものを見ているような気持ちになってくるのだ。

    奥の間に居たのは寝たきりの青年で、意外に好青年に見える。病弱な彼に身体を求められ、応える内田高子。だがそういうシチュエイションだというだけで、濃厚なベッドシーンはほとんどない。同じ家にいる姑の視線が光っているという状況を見せることにより、不穏な空気は継続する。

   やがて映画は、同じ家の次男坊の存在をクローズアップしていくことになるが、この次男坊を、後に山本晋也監督作品などでギャグメーカーとして一世を風靡する久保新二が演じている。まだ初々しい久保新二のシリアス演技が見られるのだ。
   久保新二は一星ケミ演じる遊女のところに通っている。家の金を費やすが次第にそれもままならず、お手伝いさんに金をせびって、泣きながら断られる久保ちん。このお手伝いさんは曰くつきの人物であることがやがてわかる。
   
   やがて、あまり画面に登場しないまま長兄(つまり内田高子の夫)は病死し、弟の久保チンには赤紙が届く。
   兄が死んだ晩、久保チンは雨の中で内田高子を追いまわし、草むらでついに思いを遂げてしまうパートカラー場面。ここもほとんど露出なく、手や足のUPでコトを表現。 

   (以下後日記入)