さじ加減で是非が決まるメディア

  昨日は、原田監督の取材で成城方面に伺い、貴重なお話をいっぱい伺った後、松江哲明さんのドキュメンタリ『あんにょんキムチ』を渋谷で見る。
  同題の本を先に読んでいたのだが、映画となると印象が違う。文章は著者の思っていることをダイレクトに書けるけれど、映画はそれをやり過ぎてしまうと興を削ぐ。
  同じ題材でありながら、表現の違いに、また色々と勉強になった。
  人は撮られるときに「演技」をする。演技しながら、そこに写っている表情はホンモノだったりという「揺れ」は、文章ではなかなか一辺には表現できない。 
  しかし、なにを表現すればいいのか、という部分においては、垣根を越えて興味がある。
  というのは、同じ松江さんが作った本『童貞をプロファイル。』の中で、「さじ加減で是非が決まるメディア」ということをマッスル坂井さんが言っていて、つまり、隠された「決定的なこと」を曝す、というのは、本当は求められていないんじゃないかという指摘がなされているのだ。
  受け手がエンタテインメントとして「泣いたり笑ったり」するのは、そういうところではない、と。
  そのさじ加減が「表現」になるかならないかの微妙な一線なのかもしれない。

  そんなことを考えさせられた。

  ところで本日は、松江さんの新著『童貞の教室』(よりみちパンセ)の発売日です。
  この本を読むと、『あんにょんキムチ』で書かれたお祖父さんのことや松江さん自身のことが、また違った角度で振り返られていて、昨日の上映後のトークで松江さんも言っていたように、在日論としても読めるし、童貞論としても読める内容になっている。
  自分の中の「青春」を抱える多くの人にぜひ読んでほしい内容だ。