金嬉老は「不滅の男」

PaPeRo2010-03-27

  金嬉老さんのご冥福をお祈りします。

  以前「サイゾー」の取材で高須基仁さんの事務所にお邪魔したとき、DVD三巻セット『実録プロジェクト893 金嬉老』を頂きました。

  その内容は、僕にとってのそれまでの金嬉老像をくつがえすもので、衝撃的でした。

  僕が金嬉老さんについて知ったのは、中学生の時だったと思います。社会科の教員をしている母親が、在日朝鮮人差別問題の資料として持っていた金嬉老さんの著書『弱虫・泣き虫・甘ったれ』を読んだのです。

  その後僕は和光大学に進学しましたが、教授であった三橋修氏は金嬉老裁判に関わり、金嬉老氏を民族差別の被害者と位置づけ、日本の裁判所に彼を裁けるのかという論陣を張りました。そのことを『差別論ノート』という三橋さんの本で知ります。


  そのいずれを通しても、僕が金嬉老当人に対して持った印象は、社会に追い詰められたにせよ、弱くて罪を犯しがちなひとなのだなというものでした。 

  その後社会人となり、例の嫌韓ブーム前後に、金嬉老はただの犯罪者じゃないかとか、彼の罪は罪という声を目にしましたが、ある意味そりゃ最初からそうだよ、とべつに意にとめることもなかったのです。

  だってもともと金嬉老さんが殺したのは、彼を差別的に侮辱してのちに謝罪させた警察の人間ではなく、自分がお金を借りて返せなくなった暴力団の人間だったのですから。殺人自体は煎じつめれば個人的な事情ともいえるでしょう。

  それが民族差別糾弾のヒーローのようになったのは、時代によるフレーム・アップのなせる技だと、もう大人になった自分は醒めた目で見ていました。


  しかし『実録プロジェクト893 金嬉老』を見て、それまで文字を通してだけ知っていた気になっていた金嬉老という人が、なんと魅力的!と驚きました。

  立てこもった金嬉老の演説のテープが残されているのですが、なんと知的で人を説得させ、胸襟を開いた態度!

  取材しに来た記者たちがみんな彼に魅了されたのがよくわかります。

  この瞬間、殺人犯の人質籠城事件は民族差別問題になったのです。

  たった一人の男が、世論を動かしたのです。

  もちろん<時代>もあったでしょう。

  彼は一瞬にして時代の空気を掴んだのです。

  「すごいじゃないか」と思いました。

  時代、といえば、金嬉老さんのお母さんは、お前は自分の信念のためやったのだから、いざというときは潔く自決しなさいと息子に伝えています。

  お母さんは潜在的に、こんな時も来るかもしれないと覚悟していたとしか思えません。

  戦争の記憶がまだなまなましい時代、日本人の特攻隊精神もかくやの熱い魂と、銃後の母がそこにいたのだ!と思いました。

  
  しかし『実録プロジェクト893 金嬉老』において、寸又峡の事件はプロローグにすぎなかったのです。

  DVD第二巻では、それぞれ実録ヤクザ映画、Vシネマの主役モデルになってきた戦後暴力団の大物組長や幹部がぞくぞく出演し、刑務所内の金嬉老さんを熱く語っていきます。

  コワモテの暴力団員も、刑務所の非人間的な圧政には黙って耐えるしかありません。そこへ金嬉老さんが敢然と待遇要求を繰り返し、暴行や懲罰房もなんのその、受刑者のオルグとなり「カンカン踊り」の際の暖房設置(それがないばかりに凍死した老受刑者もいるといいます)など次々と勝ち取っていきます。

  金嬉老への恩義と損特抜きの友情を語っていく証言者たち。

  このDVDを僕が見ていた時、一緒に見ていたのは和光大学で僕の授業に出ていた、いまはSAPIOやナックルズなどで書いてるフォトジャーナリストの田上順唯くんでしたが、彼が「金嬉老って、要するに<人間力>がある人なんですね」と言ったのを覚えています。言い得て妙だと思いました。

  一個一個には正しいことも間違っていることもあるでしょう。でも<人間力>は世間の常識も枠組みも超える……金嬉老という人はそれを教えてくれます。

  
  ところで『実録プロジェクト893 金嬉老』は三部作ともに、タイトルロールの部分で韓国の市場とそこで売り子やってるおばちゃんなどの光景が映し出されます。ハードな内容とはギャップがあり「なんでこういう場面が必要なのかな」と思いました。ところがそれがおおいなる伏線になっていることにのちに気付きます。

  第三巻、釈放された金嬉老さんは「民族の英雄」として韓国に迎えられます。そこで愛を誓った中年女性が、腐れ縁のDV男に脅しをかけられていることを知り、談判しに行きます。その男は、既に老体である金嬉老さんの歯を折り、圧倒しますが、金嬉老さんは紙の束に火をつけ、逆襲に転じます。

  これで彼は逮捕され、「民族の英雄地に堕ちた」と言われることになります。     


  ところがその中年女性は金嬉老さんをずっと待ち続けていたのです。あの韓国の市場の光景の意味が初めてわかる時が来ました。

  市場のおばさんと、いまは彼女と一緒になっている出所した金嬉老さん……僕の胸にはこみあげてくるものがありました。


  「民族の英雄」? 「ただの犯罪者」? 

  いや、金嬉老さんは若き日も、年老いても、弱き者をかばい、強き者に立ち向かい続けた……そうだ、彼こそ「不滅の男」じゃないかと僕は思いました。

  そんな「不滅の男」金嬉老に合掌です。    
  

  ♪今まで何度 倒れただろうか

   でも俺はまたこうして 立ちあがる

   そうさぁ やる時は やるだけさ

   俺は負けないぜ そう男


  遠藤賢司さんの『不滅の男』が、僕の中で金嬉老さんへの葬送曲のように鳴り響くのでした。