大学講師を辞める弁

私事になりますが、大学の非常勤講師の仕事を、この3月で辞めることになりました。

「非常勤」ですから、極端な話、毎年もう次の年がなくても契約上はおかしくはなかったのでしょうが、14年間やってきました。自分の人生の中でも、何分の一かの割合を占めます。

それを辞める事になった大きな理由として、何年か前から、一年通した授業が出来なくなったということがあります。「半期」と呼ばれる半年間の授業になってしまったのです。

半期になったのは、年度の途中で学校に行かなくなり、「どうせ単位も取れないし」と中退する学生が多いので、それを防止するために、半年後には新しい授業で再起出来る機会を与えたいというのが一つの理由だと、大学側から説明されました。

もう一つ、海外からの留学生を受け入れる関係上、9月始まりにした方が都合がよく、いわば「国際基準」に合わせてのことであるとも説明されました。

しかし半期となると、後述するような私の授業のやり方には適合しにくいものがあります。通年の付き合いの中で、学生との人間的な交流によって、有機的に築き上げていく授業でなければ、やりにくいというのが正直なところでした。私の授業では夏に合宿を行っていましたが、半期ではそれも出来ません。

それでも、メーリングリストを立ち上げ、お互いの発表やレポートについての意見を表明する機会をもうけるなど、出来る限りの対応はしましたが、やはり関わり方として中途半端なものになってしまっているという感覚は否めませんでした。

私の講師としての職場は、元々、私自身が卒業した和光大学というところです。もちろん、はじめはその関係で声がかかったのです。

町田市という、東京では一番神奈川県寄りの隅っこの場所に、一回5千円という多いとは言えない講師料で一時間半かけて行く気になったのは、大学という場所では私自身、恩師や友人に恵まれ、人間形成という面でお世話になったという思いがあり、口幅ったく言えば、そういう機会を与えてくれた場自体に対しての「恩返し」という意味合いがありました。

それに加えて、私がその数年前から民間のライター教室で講師をしていたというのも大きいのです。こちらの方でははじめ毎期1〜2回を担当していただけでしたが、その内、自ら希望して、一期分の全回を私一人で受け持っていました。

従来は毎回講師が変わる関係上、一回一回違うテーマの課題を受講生がこなす形だったのですが、それでは単に「オモシロ授業」になってしまい、トータルで力が付いているのかどうかがわかりにくいと思いました。

私は全回の中の、特に後半の流れとして、「400字30枚以上の原稿を書き上げて、単行本のプロトタイプとする」という方針を打ち出しました。そして終了した後も希望者は原稿を講評できるように、修了生用のゼミ枠も作ってもらいました。

私自身、書き手として、まず長い文章で山を越えてきた育ち方をしたからです。

私は出版の世界で出会いに恵まれ、ライター生活一年目という比較的早い段階で一冊の本を出すことが出来ましたが、雑誌や新聞などに短い原稿も書くようになったのは、その後です。

大きな山を最初に越えた方が、後で細かい仕事をやるようになっても応用が利く。けれどその逆だと、なかなか大きな仕事を任される事がないまま時が経ち、たとえプロになってもやせ細ってしまう。

チャレンジすることで、「書く」という具体的なことに慣れてほしいという思いがありました。そのためには、毎回違う講師にバラバラに指導されるより、一人の人間が密に接し、普段から書きたいと思っている事について話し合っていた方がいいと思ったのです。

各人の書くテーマは自由にしました。もういきなり、自分が出したいと思っている本の題材で取り組むのです。もちろんテーマは途中で変わっても構いませんが、それが本当に自分のやりたいことなのか、だったらそれをどう伝えるのかという切実さこそがモチベーションになると思いました。

そういった方針で授業をしてきて、修了生の中には自分のテーマを発展させて本を出した人も出てきました。そうでなくても、出版や編集の現場で働くようになった修了生もいっぱいいました。

このライター教室での講師仕事は現在も続けていますが、そこで手応えを感じていた私は、大学でも、学生と有機的につながりを持った授業をしようとしました。

大学で私に任された授業は「メディアと若者文化」というもので、ライター教室とは目的が異なります。

そこで私は、「若者文化」つまり現役の若者である学生自身が自分の好きなものを紹介して、お互いの関心を知ることで、いまどういう時代に生きているのかを確認する授業にしました。そして年長者の自分が、縦の時間軸の中で、それが持っている意味について問いかけることにしたのです。

自分が講義をする回と、学生の発表形式の回を織り交ぜて、立体的に構成しました。学生が発表する際には、その学生の聴いているCD、見ている映画、読んでいる漫画などに私自身接し、意見を持って臨みます。発表までに2〜3回打ち合わせをしました。

それらの記録を『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)という本にしたこともあります。

加えて、同時代の書き手の中でも、学生にとって比較的年齢が近くて、同時代を表す刺激的な活動や著作をものしている人にゲスト依頼をしました。作家や映画監督、批評家と多岐にわたる人が来てくれました。近年では、宇野常寛氏が90分の授業時間を大幅に超過して、3時間仮面ライダーの話をしてくれた時の、学生の楽しそうな表情もよい思い出になっています。

このように、それなりのやれた実感に加えて、卒業してからの学生との交流などもありながら、大学講師を辞することになったのは、私自らの希望とはいえ残念です。

講師として残りの人生を賭けるだけの機会が与えられれば、やりたい気持ちはいまでもあります。ライター教室でそうであるように、全体の授業運営をトータルで見れる立場から、主体的にコミットしていくことが許されるなら、これからもぜひやってみたいと思います。

しかし、それどころか私個人の授業すら縮小、細切れ傾向にありました。

もう少し、実際に学生と付き合っている現場からの声が、大学の授業運営に反映されていくようなかたちがあればよかったのですが、少なくとも自分の居た大学においては、なかなか難しいということであれば、来期からは辞退しようと考えました。

私が講師として、ここ数年向き合っていた<大学の矛盾>というものがあります。

若者の人口が減り、大学進学を希望すれば、どこかには入れるようになった時代に突入してしばらくたちます。AO入試も受験のありようとして一角を占めています。

そして現在多くの学生が、ウィキペディアやネットから拾ってきた情報でレポートを書き、それでよしとしてしまうきらいがあります。それに対して、単に嘆いていてもはじまりません。便利な情報ツールはそれはそれで使えばよいのですが、その上で、自分自身の考えをいかに構築し、他者に呼び掛けていくのかが問題です。

私自身は、そこに対応するために、以前は一つのレポートは一回提出すればよかったものを、何度か再提出してもらう事にして、そのたびに良い点、もっと書いてほしい点を指摘していくことにしていました。

そうやって「掘っていく」作業に付き合っていかないと、学生は、自分が何を感じているのか、欲しているのかさえ、自覚できない状態にまで来ています。

ところが、そうした危機への対応の必要性が増してきたあたりで、むしろ逆コース的に、個々の学生と向き合う機会を大学側が減らしてきています。これは私にとっては、おおいなる矛盾としか言えないものでした。

たとえば私の授業ではこんなことがありました。3・11の震災の被災地に何度も取材に出かけているあるジャーナリストがゲストに来てくれた時、感想ペーパーで、「原発」という字を「源発」と書いてきた学生がいたのです。一つの文章で何回もそう書いているのです。

これは学力の問題ではないと思います。電車に乗れば、特に震災直後の1〜2年は、毎日のように雑誌の吊り広告で「原発」という字を見かけたはずです。テレビのテロップでだって、無数に見てきたでしょう。もちろんいまでもその機会は少ないとはいえません。

しかしその学生の意識にはインプリンティングされてないのです。なぜなら、彼はその字を主体的に見ていないから。ただの風景だからなのだと思います。

もはや原発推進とか、脱原発とかいう以前の問題です。社会の問題について行動を起こしたり、意見を持ったりすること以前に、物事を受け止めること自体の主体すら、そこでは希薄なのです。

ただ、繰り返しますが、私は現代の学生の質が低くなったという言い方に、一概にくみするものではありません。考える角度や、話し合える場を作る努力をお互いにしていけば、自然と、自分の立ち位置と別の世界への距離感と想像力が生まれてくるのだと信じています。

そうすれば、自分が……たとえ所謂エリート大学の学生でなくても……大学に行ける立場であるということへの、自覚というほどの強い意識以前の自覚が、うっすらと生まれてくるでしょう。

若手社会学者の古市憲寿氏が授業にゲストで来てくれた時、自分が今大学生としてここにいるという立場は、そうでない人もいる中で成り立っているし、そのことへの想像力を持つだけでも、物事の見方が変わるのではないか?と学生に呼び掛けました。

いまの時代、大学の中でしか伝えられないものはなんなのか?
それを根本的に考えるところから立ち上がる場が作られる時、僕も及ばずながら出来ることをしていきたいと思っています。<以上はメルマガ『映画の友よ』http://yakan-hiko.com/risaku.html第7号に掲載された文章を再構成したものです〉