17歳の風景 

  若松孝二の新作「17歳の風景 少年は何を見たのか」。

  冒頭の揺れる富士山で、瞬間60年代の若松映画に帰ってきた気になった。

  殺人をした少年の旅は「略称・連続射殺魔」での風景論のやり直しなのか。
  「お前たちはただの風景だ」と雑踏でモノローグする少年に、そう予想した。

  だが、旅先で大人の過去バナや意見を一方的に聴かされているだけの行儀のいい少年。母親を金属バッドで殺したということだが、映画の中の彼が新しく暴力をふるう危険や怖さはみじんも感じられない。こんなに安心して見れていいのだろうか、とも思った。
  一方、不思議と自然に受け止めている自分もいた。犯罪を犯したからって、いつも粗暴とは限らない。世間からは殺人者でも、その人間にとっては一度限りの、他の時には起こり得ようもない出来事だったのかもしれない。むしろ彼は、自分でやったことを当人だからこそ受け止められないのかもしれないではないか。
  主演の柄本祐に演技臭いものがまったくないのがいい。
  
  慰安婦だったというおばあさんが、瞬間若い頃の美しい姿になる。エフェクトとして特に変わったことをやっているわけではないが、素直に心に入ってきた。思えば、昔の若松孝二の映画は、凶行を犯すが最後には聖女のような女性に受け止められる主人公が印象的だった。母なるものとの桎梏が底流にあるのだろうか。現にこのおばあさんとの出会い以降、彼の旅は急転回するのだから。
 ラストの崖の上からの叫びは、自分を取り戻した瞬間なのだろうか。
 
 針生一郎さんとは和光大学でではなく、見沢知廉さんの縁でごく一時期出入りしていた末期の新日本文学会でこそ身近に接することが出来た。その針生さんが少年と邂逅する老人役で出てきたのには驚いた。
 少年に向かって、セリフとしてではなく、針生さんの言葉を喋る。自分は17の時は戦争に行って死ぬのが当然だと思っていた。そして敗戦。戦争から一見立ち直ったかに見えた日本人のごまかしを嘆き、しかし40になる自分の息子から「親父の世代はいい。なにもないところからスタートできた」と言われたとき、それも一理あると思ったと針生さんは言う。「決められた世界で生きていかねばならない君たちが青春を満喫するのは難しい」と針生さん。

 針生さんの世代と17歳の少年。その間に40台の僕の世代の存在が言及されたことで、若松映画を見ている側の僕も参入できたような気になった。
 要領よく、失敗しない生き方が求められてきた僕の世代。しかし、それ自体を目的にするというのは、いったい何の意味があるのだろうか。

 大人の話を聞く少年と、自転車ですでに走り出している彼の姿がダブる場面が多い。