「夜回り先生ポエム」に感動

   わしズム夜回り先生のことを書いた。
  僕はあの人に悪意は持っていない。むしろ尊敬する。自分には出来ないことをしている。カッコイイ。男の自分からみても惚れたくなる。
 でもみていると、なんともいえないハラハラした気持ちになる。それを出来るだけ理性的に書いてみた。
 最近「こわれ者の祭典」の月乃光司さんが夜回り先生をポエムにしているのを読んだ。

 http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=502228&log=20060806

 すごい。僕が言おうとしたことを、あけすけなまでにズバリ言えてしまっている。
 どこがそう思ったのか語る前に、背景を知らない人向けに用語解説を。
 詩の中にある「せりがや病院」「赤城高原ホスピタル」は夜回り先生が子どもたちの件で相談に乗ってもらったり、子どもたちを救うために連携している場所だ。前者は愛だけでシンナー中毒の少年を直そうとして失敗し死なせてしまった夜回り先生に「あんたが殺したんだ」と突きつけ、先生の子どもたちへの向き合い方を変えるきっかけになった医師の居る病院。
 「マサフミ」はそのシンナー中毒で死んでしまった少年。夜回り先生の著書や講演に登場する生徒は「マサフミ」「タカシ」「アイ」などカタカナで名前のみ表記され、ヒット携帯小説Deep Love』に登場する十代の若者が「アユ」「レイナ」など名前のみで呼ばれるのに方法論として通じている。匿名に近い、どこにでもいる誰か、という印象を与える効果がある。
 「いいんだよ」というのは夜回り先生のキャッチフレーズ。
 「おれ、カツアゲやってた」「いいんだよ」「おれ、クスリやってた」「いいんだよ」「わたし、援助交際やってた」「いいんだよ」という風に使われる。そして最後に「でも、死ぬだけはダメだよ。まずは今日から、水谷と一緒に考えよう」とシメる。「水谷」とは夜回り先生の本名。下の名前は修。

 さて月乃さんの詩だが、僕が思うに、月乃さんもまた、夜回り先生になんともいえないヤバさ、ゾクゾクしたものを感じている。でも月乃さんは夜回り先生が大好きだ。
 そのジレンマを詩にしている。

 僕はわしズムの原稿でこう書いた。
 「もし自分が十代だったら、死んでしまったり、罪を犯してしまったことで夜回り先生と魂の交流が出来た生徒たちを「羨ましい」と思ってしまうのではないか。(略)自分もそんな問題の大きい存在になれば、夜回り先生に相手にしてもらえるのではないか? ――夜回り先生リストカットの痕や血まみれの服を送ってくる子供たちの中に、そういう子がいないとも限らないと、私は思うのである」

 月乃さんはまっすぐに水谷先生に突きつける。
 「僕だけに『いいんだよ』って言って欲しいです」
 「僕を、僕を、マサフミのように熱く語って下さい!」

 アルコール依存症から立ち直った月乃さんは、夜回り先生に「依存」の匂いを感じる。そしてそこから距離を置こうとするのではなく、僕だけのための夜回り先生になってください!と叫ぶことで、その構造が浮き彫りになる。

 月乃さんが感じるジレンマは、自分がもう大人になってしまっているというジレンマだ。

 夜回り先生が自己を犠牲にしても救うのは、相手が子どもだから。
 子どもはこれからの世の中を担う、宝だから。

 宮崎勤が「Mクン」と呼ばれてから、大人の犯した犯罪だって、子ども時代の問題が本質的に入り組んでいることは徐々に共有され、もういまの時代では前提となっている。だけど便宜上は年齢で分けなければ、夜回り先生だってキリがない。だから大人は汚いから許せなくて、子どもは「昨日までのことは、みんないいんだよ」ということにしてあるのだ。

 そこを月乃さんは突きつける。
 自分のような未成熟な大人をどうしてくれるんだ、と。

 援助交際をやっていた子どもは「いいんだよ」と許されるけれど、数年前に当時中学生だった教え子に手を出した現役教師には、たとえ昔のことであっても「人間として絶対許されないことだ」とさかのぼって自首を進める夜回り先生

 もちろん、そりゃ世の摂理としては当然の理屈だ。

 「おれ、教え子に手を出した」
 「いいんだよ」

 「おれ、ひき逃げした」
 「いいんだよ」

 「わたし、不倫してる」
 「いいんだよ」

 こんなことが通用するわけがない。
 子どもだからこの理屈が通るのだ。子どもは、大人社会の被害者だから。

 だが、子どもは善で、大人はどうやっても汚いとする夜回り先生の、自分をどこまでも浄化しようとする姿勢には息苦しさを覚える。

 ハゲたり仕事がいやだったり彼女が居なかったりする「大人」の問題も、夜回り先生に救って欲しいと言ってしまうという、このおかしみを込めた、自分を突き放すような月乃さんの姿勢こそが、夜回り先生にないものなのである。

 僕は自分の原稿にこう書いた。
 「私には、夜回り先生こそが、不安定な子供たちに依存しているように思えてしまう。そこに無限循環のような構造を感じてしまうことを否めない」

 月乃さんは言う。

 「先生、『夜回り先生』という姿は、あなたが自分探しの末にようやく辿り 着いた姿じゃないのですか?
 先生の心にもぽっかりとした穴が開いているのでは、ないのですか?
 水谷先生、あなたは僕たちの仲間です!」

 月乃さんは、夜回り先生が抱えている構造を徹底的に肯定しぬくことで、そこから突き抜け、夜回り先生が抱えている息苦しさを突破しようとしているように見える。
 満身創痍で子どもたちのために戦っている夜回り先生の存在を救っているのは月乃さんではないのか。