ヱヴァの夏、日本の夏

 出産が延期となったための7日からの東京行きは、ひとつは見沢さんの追悼の会および公演に伺うため、もうひとつはキネマ旬報9/1号のヱヴァンゲリヲン新劇場版の特集に原稿書かせていただいた関係で送ってくださった招待チケットで作品を鑑賞するため、でした。
 映画の完成がぎりぎりのため、特集における記事では過去のエヴァンゲリオン作品について書くという形になっていたのです。
 公開は1日からですから、もっと早くに見ておくべきだったのですが、一週間後の8日に無事見ることができました。

 キネマ旬報の文章での末尾を、僕はこう書いています。
「出来上がった過去ではなく、焼け付くような『現在』のリアリティを求める心性。それを今度の新作にも求めたい。そう。『エヴァンゲリオン』は常に現在を描いている作品だったのだから。」

 そうもちろん本気で書きながらも、一方で僕はどこか、タカをくくっていたというか、庵野秀明がかつて作ったものを上からなぞり、そこに部分的に新しい技術がくっついているようなものをイメージしてたことを正直に告白します。それは期待値が低いということではなく、そのぐらいが妥当だと思っていたのです。

 新宿の映画館は予定の新宿シネマスクエアとうきゅうではなく、より広いミラノ座に変更になり、若い人で満員。
 その中で見ましたが、予想をはるかに上回る至福の時間でした。
 
 作品の中に現在の時間が流れていて、「回顧」ではなく、かつて見ていたあの時間の感覚にまったくそのまま戻ることの出来る体験でした。
 その驚きは観客席全体のものだったようです。物語が終わって、ミサトさんのナレーションによる予告編も終わり劇場が暗くなった瞬間、さざ波がだんだん大きな波になるように拍手が起きました。
 完成披露試写や舞台挨拶の日とかじゃないですよ。公開後一週間も経った通常興業の場でのこの反応。べつに拍手してもその場に作り手がいるわけじゃないことを誰もが知っている。「え…あれっ、おい……」と、拍手している自分たちに当惑しているような若者たちの声が漏れます。誰に求められたわけでも誰を気遣っているわけでもない、まったく素直な感情の表出が現れた瞬間だったと思います。

 エヴァンゲリオンに流れていた時間というものは、見ていた僕たちの共有体験なんだと思いました。
 そして今回の作品は、かつてのリミックス的総集編と違い、まったくエヴァを知らない人たちにも堂々とすすめられる、ここから始まる作品だと思いました。

 観客席を後にしながら「十年前はシンジの気持ちが良くわかったけど、いまはミサトさんの気持ちが良くわかるよ」と連れの女性に話していた二十台ぐらいの男性がいましたが、過去と現在の自分を照らし合わすことの出来る時間でありながら、いまここに流れている時間そのものでもある。折り重なっている時間というものを浮かび上がらせる効果のある作品でした。

 「こりゃパンフレットも買わなきゃな」という若者と、僕は同じ気分でした。
 僕も中学生の頃は映画館に行くたびにパンフレットを買っていましたが、パンフレットって、ちゃんとメイキングが書いてあるものと、ただのプレスシートの延長でしかないものとの差が激しいので、よほど面白いと思った映画のとき以外は、買い求めなくなっていました。後者のものは、ネットで新作映画のサイトが見られるようになってからは、よけいに必要ないものとして認識されていました。
 800円のパンフレットを開いてみたら、氷川竜介さんによる詳細なREBUILDの実際がレポートされていて、おおいに得した気分。映画の余韻に半日浸ることが出来ました。

 十二年の歳月で「古くなった」と感じさせないように、テイストをそのままいまに持ってくるために費やされた技術と努力。
 その記録を読みながら、映画とはやはりそこに流れている時間を作り上げるものなのだなと思いました。
 僕が映画とは、まずなによりも「時間表現」だと思っているから、ということもあります。

 かつてエヴァンゲリオンの批評を書いていたとき、阿部嘉昭さんは、こう書いてくれました。

 「いま『夏』を主題系にして、応答をかさねている作家−評論家の対があるだろう。『新世紀エヴァンゲリオン』『ラブ&ポップ』の庵野秀明と、『お前がセカイを殺したいなら』『ぼくの命を救ってくれなかったエヴァへ』の切通理作だ。『エヴァ』では日本を壊滅させた「セカンド・インパクト」後の、季節を失い、いっさいが『夏』になった季節停止の近未来世界が舞台となる。だから題名『エヴァ』には、『福音』や『イヴ』のみではなく『エヴァー・サマー=永遠の夏』の含意もあるだろう。その夏の実相は近未来であるはずなのに、たとえば作者=庵野の記憶の夏へと退行している。『季節停止=時間停止』『近未来』そして『現在よりもさらに退行した時間』はすべて『もうひとつの時間』としてあり、その結果『エヴァ』はパラレル・ワールドの複数的=同時的提出を主眼に置いてもいる。その提出によって時間からの脱出口がしめされるのではない。『エヴァ』の世界は、より強烈な時間の閉塞意識へなだれうっているのだと、切通は『ぼくの命を救ってくれなかったエヴァへ』で読む。卓見だろう。その時間閉塞の『けだるさ』のため、庵野に呼びこまれた単一季節が『夏』だったという点も、感覚的にまったく正しい。切通はその著作のまえ、『お前がセカイを殺したいなら』を上梓している。それには恐怖をもたらす青空の無限感覚にたいする、より若い世代の感覚の考察があった」(関西学院大学出版会刊『AV原論』より)

 そう。最後のミサトさんの予告で「壊れていくシンジ」とあるように、その時間感覚が向かうものについて、僕を含めたかつて作品を見てきたものたちは予感しているのだけれど、それでいて、いまはこの時間を祝福できる。
 それは、それぞれの人生において幾度も閉塞を感じ、そこから立ち上がり、同じようなことを繰り返して、たいして「成長」もしないのに生きながらえてきた、僕たちの「現在」そのものなんだ、と思いました。