10月新刊 その名も情緒論


 10月に入ってすぐ完成、第一週あたりで各書店に配本になる僕の新刊が『情緒論〜セカイをそのまま見るということ』です。春秋社からの刊行になります。

  数年前に「群像」という文芸誌で変わった試みがありました。批評と小説のコラボレーションなのですが、まず批評家が「こんな作品を読みたい」というテーマで評論を書き、それに応えて作家が実作をして同時掲載するのです。
  僕がその「批評」部分を担当し、小説家の人に注文を出さなければならなくなったとき、思いついたのは「情緒のある小説を読みたい」というたった一言のリクエストでした。

  あのとき、なぜか「情緒」というコトバが浮かんだのです。
  文芸誌に対する嫌がらせの気持ちも多分に入っていたのかもしれません。文芸や「お芸術」の世界では、クールに構えて、まるで感情などないかのように、すべての物事を相対化し、あるいは「ノイズ」化し、つまりデザインにおける意図的な「空白」に批評を読み込むのが作り手側の段階からもう組み込まれているような、そんな「お約束」が満ち溢れているように、僕には感じられます。

  そしてそんなお約束を通っていない、ただ空を見上げてジーンとしたり、スイスイ飛ぶトンボを目で追ったりすることは、みんなつまらないこと、ないしは頭の悪いことのように言われ、感傷的だとか、ウエットだとかバカにして、そういうものを廃して、情緒に浸らず体制にいつまでも戦いを挑まなければならない的な、サヨク永久機関のような言い方がいつまでもまかり通っています。

 いや、まかり通っているぐらいならまだいいんですが、他ならぬ僕の中にも、無意識の抑制として、取り澄まして、クールに、あたかも相対的に物事を見ているように対しないと批評家としてマトモに見られないんじゃないかというような自意識があるのは否定できません。
 
 だから、そんな状況に「情緒のある小説を読みたい」という言葉をポーンと放り込んだのは、自分的にもとても勇気の居ることでした。
 
 一度その勇気を持ってみると、今度は、自分の中に抑制されていたのにこぼれだしてしまっていた「情緒」を見つめなおし、一冊の本にしてみたいと思うようになりました。
 
 たとえば、僕は「せつない」という言葉がとても好きです。男性なのに(と人から言われるだけで自分では意識していないのですが)、「キューンとします!」とよく両手を組んでトキメキます。
 
 「売春」というコトバが「セックスワーカー」と言い換えられることに抵抗を覚えます。
 単に身体を貸し与える、という無機的な表現ではなく、春を売る、なんていうせつないコトバが、法律の文言の中にまで記されているなんて、日本って、なんて情緒のある国なんでしょう。

 そこまで行くと僕のことを変態と呼ぶ人も居ますけれど、そういう「変態」的なことも含めて、いろんな「情緒」を集めた本にしたいと思いました。

 最初は『せつない系 情緒図鑑』っていうタイトルも考えていたんですよ!

 ぜひご一読くだされば幸いです。
 そして、あなたの「キューンとすること」を教えてください!