情緒に『論』をつけるなんて


  『情緒論』の表紙オビに枡野浩一さんからコメントを頂いたのですが、そこに「情緒に『論』をつけるなんて」という一節があります。
  それがそんなに意外なことなのかという発見がありましたが、思い当たる部分もあります。

 昨年出した『失恋論』の感想が書いてあったある人のブログを読んだことがあるのですが、「わかる、わかると何度も膝をたたいた」という賞賛の言葉と「 だから全然『論』になってないし…」というツッコミが並列してあるんです。
  そういう感想は多かったんです。「評論」というものを、身近でない、よそよそしいものに感じて欲しくなかったから、この反応は嬉しい部分もありました。けれどもその反面、ちょっと複雑な気持ちになってしまいました。

 「わかる、わかると何度も膝をたたいた」けれども「『論』になっていない」と思う。それは、自分の「わかる、わかる」は単なる情緒的反応であって、「『論』ではない」というバランス感覚をその人が持っている、ということだと思います。

 『失恋論』は既存の恋愛論や思想を参照しながら恋愛そして失恋に至る心理を考察している本で、自分の体験もあくまでそこと照らし合わせるために書いています。
 ただ、書き方のスタイルが「一人称主観」であるめに、この著者は自分のことを書くのが主で、論を置き去りにしていると思い込んでしまったということなのでしょう。

 情緒的な思考は「論」ではない。この「常識」を真っ向から問うために、僕は『情緒論』を出そうと思いました。

 枡野さんからいただいたコメントには「切通さんは、どこまで行ってしまうのだろう」というフレーズもありました。
 
 こうなったら、どこまででも行ってやる!と思います。