「ポニョとハヤオを語りたおす!」 レポその1 

  
  拙著『宮崎駿の<世界> 増補決定版』(ちくま文庫)刊行記念トーク「アニメ昼話 ポニョとハヤオを語りたおす!」、おかげさまで事前予約の方だけで百名近く、当日は満員の盛況で、用意した本も完売。感激しております。
  休日の昼間、曇り空の下に足を運んでくださった方、ありがとうございました。お会いできなかった方とも、またの邂逅をお祈り申し上げます。
  まさに、地下に青空が広がっているような天晴れな気分でした!

  冒頭、まずゲストのお二人をお呼びする前に、一緒にステージに上ったプラスワンの斉藤友里子さんから、拙著のやはり冒頭近くにある、宮崎作品に対する「体験したことがなくても、それはもう私の人生の場面の一つだ」という記述について触れていただきました。
  まるで自分の身に本当に起こったことのように、刷り込まれてしまう。高い場所から跳べもしないし、少女を抱きかかえて走ることもない現実の自分の方がかりそめであるかのように感じられてしまう……。

  そして、たとえば偶然つけたテレビでやっている『トトロ』や『ナウシカ』を、「もう何度も見たよ」と思いながらついのめりこみ、最後まで見てしまうということがどうして起こるのか。あるいは、それまでアニメを見たこともないような年配の人間が、テレビスポットで数秒だけ見た宮崎作品の動きに惹かれて、映画館まで行ってしまうということがどうして起こるのか。
  テーマ論やストーリー論だけではアプローチできない領域なのではないか。
  それを、竹熊健太郎、氷川竜介両氏と追い求めてみようという三時間半でした。
 
  宮崎作品は所謂シナリオ作法に則った、綿密な構成があり伏線を張っていくというものではないのにも関わらず、どうしてこんなに惹きつけられるのか、という竹熊さんの問いかけ。
  もちろん「それがわかれば同じものを作れるはず」と氷川さんが言うように、宮崎作品の魅力の結論は出しようがない。だからこそ追い求めていきたいのだと思いました。「すべてが出来上がっている時代に、そうじゃないものを提示しているのではないか」という氷川さんの発言には共感しました。

 宮崎作品を語るとき、見たときに自分の中に広がる世界があまりにも「実感」になってしまっているために「自分だけがわかっている」と断定し、他者の感想を排除してしまいがちです。
 でも、養老孟司さんが言っているように、映像が動いているだけではなく、見ている自分自身も「動いている」はずで、そこを固定化し、フィックスしてしまうと、必ずこぼれ落ちてしまうものがある。
 今回のトークの出席者は、そのことを共有している人間どうしだから、あんなに風通しが良かったのかなと、思いました。
 これからも、作品とともに揺さぶられ、動き続ける自分というものを見つめていければと思います。
 ……と、そんなことを言うと、よくある「自分探し」じゃないかと言われそうですが、氷川さんがトークでおっしゃったように、自分が自分の中で完結するのではなく、人間というものも人間の中で完結するものではない。それゆえの、普段は意識しないけれど、実は地球も人間も50%以上はそれで占めている「水」というものの表現に宮崎駿が取り組んだ所以のひとつでもあるのでは……という氷川さんの発言を聞いて、僕は、一時期ジブリで文芸班にいた佐々木千賀子さんが雑誌に書いた文章(「文藝春秋」2,001年12月号)を思い出しました。

 佐々木さんはジブリ内部で行われる講演会の担当もしていたのですが、作家の塩野七生がゲストに来たとき、宮崎駿は「ヒューマニズムのあとに来るもの」というお題を注文したというのです。佐々木さんによれば、宮崎駿は、この現代の次にどんな時代がやってくるのか、常に気にかけていたと。そして、講演に来た塩野七生は「ヒューマニズムのあとに来るものは……やはりヒューマニズムです」と答えたといいます。人間の人間に対する興味が尽きることはない、と。
 その話を打ち上げでしたら、「人間は人間にしか興味が持てないんですよ」と氷川さんは言いました。
 
 宮崎作品に揺さぶられる自分を知りたいと思うことは、動きをやめない<人間>の行く末を知りたいということであり、それは決して終わることがない。
 今回、出版社の意向で「増補決定版」とタイトルが付きましたが、本当は「決定版」にはしたくなかった。宮崎駿の新作が出るたびに書き足し、無限に作り変えていきたいというのが本音だったのだと、トークをしている最中に気づくことが出来ました。
 (この日記は続きます)