高久進さんのドラマ作法

  
  高久進さんの追悼がネットでさまざまに出ています。
 多くの人に偲ばれるのは、一本一本どんな話を書いていたかつまびらかでない人たちにとっても、テレビの一時代を画した人として認識されているからでしょう。

 著名な人の追悼としては、唐沢俊一さんが、その日記で触れています。
 そこでは、要約すれば、高久さんのことを、主に「グロ趣味があり、理屈ぬきで面白い場面でつなげる作家だった」と書いています。
 http://www.tobunken.com/diary/diary20090723233847.html

 グロ趣味だったかどうかはともかく、怪奇志向に関しては、佐藤肇監督といくつものコンビ作を発表したように、大いにうなずけます。どちらかというと精神的な「呪い」の志向性だと僕は考えますが、丹波哲郎さんから『大霊界』の脚本を依頼された高久さんと佐藤さんは、お話をお得意の「ナチスの亡霊」話に引っ張ったため、一読した丹波さんからボツを食らわされたという話があります。そのことを、高久さんはむしろ愉快そうに話されていたのを思い出します。

 松竹の『吸血髑髏船』は、『キイハンター』でのお二人のコンビ作に目をつけた小林久三さんが許可を取ってリメイクしたものです。DVDボックスに収録された、登場人物が人形に憑依してしまう怪作「お化け怪獣大戦争」もお二人のコンビ作です。
 もちろん、津本陽の小説に材を借り『Gメン‘75』版「八ツ墓村」とでも呼ぶべき黒谷町シリーズを定着させたのも、見逃せない出来事です。

 ただ、先の要約の後半部分ですが、「理屈ぬきで面白い場面でつなげる作家だった」という部分には、僕はちょっと引っ掛かりを覚えるのです。
 たしかに唐沢さんがいくつか例に出したもののように、多数ある作品の中では、ルーティーン・ワークの枠内で強引にでも見せ場をつないでいくものもある程度含まれていたのは事実ですし、そういったことが必要なとき、作家的気取りから嫌う人でなかったのは事実だと思います。

 しかし、高久さんは、どちらかというと、ある種の職人として「理屈にこだわるから面白い」というのが身上の人だったと、僕は思うのです。

 黒澤明の『野良犬』で、刑事が拳銃をスられる瞬間が描かれていないことに不満を持った高久氏は『Gメン‘75』でそこに挑戦します。ツメは細かいところまで考え抜くから面白い、という姿勢からでした。

 『Gメン‘75』の最終回は、ヨーロッパと日本で時を隔てて同じ手口の殺人が起こる、という発端でした。しかもかつて殺人犯とされた人物は刑務所に収監の身。

 この発想の源は、同じ拳銃から発射された弾が国を隔てた違う場所で発見されるというものでした。高久さんはそのトリックを考えましたが、どれもご都合主義で面白くないと、飲み屋である推理作家に話しました。「僕に書かせてくれ」と頼むその作家に託しましたが、書かれた作品は高久さんを満足させるものではありませんでした。高久さんは、いつかこのトリックを自分で書いてみたいとおっしゃっていました。

 こうしたプロセスへのこだわりがドラマに組み込まれ相乗効果をなしたのが『超人機メタルダー』だと思います。

 生みの親の古賀博士を殺されても、覚醒したばかりのロボット・メタルダーには「死」の意味が解らない。その次の回で敵と相打ちになり、相手の身体が起き上がらなかったときに、はじめて「死」の意味を知る。そして古賀博士を喪った悲しみを知るのです。そしてさらに次の回、メタルダーは倒した敵にトドメをさしません。疑問を呈する相手に「命だ」と言うメタルダー

 この部分に放映当時唸らされたことを話したら、高久氏は、心情を技巧に置き換えるため、考えに考え抜くとおっしゃっていました。
 これが、同じ時間枠でヒットを飛ばしていた宇宙刑事シリーズでの、上原正三氏による、「見せ場、見せ場の連続」の技法に対する、高久さん流の切り返しでした。
  『メタルダー』がいまでも多くの人々の心に残っているのは、こうした部分の畳み掛けの見事さと無縁ではなかった私は思います。

 見せ場をつないでドラマを作ることだってもちろんやれる。しかし出来るだけプロセスを考え抜くことが自分の仕事だと、高久さんが考えていたのは事実です。

 以上記したことは、「東映ヒーローMAX」での私の連載『仮面の世界 マスカーワールド』で高久さんに取材したとき(第5、6号)に既に記したことではありますが、この機会に改めて書いておきたいと思いました。