ドキュメンタリー頭脳警察

  映画の中でのいろんな場面が日常の中でよみがえってくることって、ありませんか?
 それで、見ている時以上にジーンとしてしまったり……。

 最近僕は「ドキュメンタリー頭脳警察」の第二部で、重信メイさんに歌を歌わせようとディレクター役で四苦八苦するPANTAさんのくだりがよくよみがえってきます。
 歌詞カードにある「(母が自分を)育ててくれた」っていう歌詞に「違うんじゃないか」と納得しないメイさん。PANTAさんはそこを消します。しばらく悩んだ後に「守ってくれた……(では)?」とメイさんが言うと、PANTAさんが「いいね〜、それポップだよ!」と同意してみせるところです。

 たぶんそんなにお母さんと一緒にいる時間はなかっただろうメイさんは、でももっと大きな意味で「守ってくれた」というところで母を捉えていたんだということ。そしてそれがフッと出てきた瞬間がカメラに捉えられているようにみえるのが素敵だと思いました。

 この第二部は、お母さんを喪ったPANTAさんが病院船だった氷川丸を訪ねるところから始まり、氷川丸に乗っていた人たちに会いに行くところにつながります。
 いま90代のおじいさんは「仕事だったから何もおぼえていない」と言います。また一人の証言者は、横浜港に係留されている氷川丸には一度も行ったことはないと言い、観光用に変わり果てた氷川丸は解体すべきだと言います。
 母のいた時代の記憶の証言は得られませんでしたが、でもPANTAさんに落胆した様子が見られません。公式の航海記録が母の記憶と一致していたことで喜びます。

 次に獄中にいる重信房子さんとの交流の話が出てきます。それは第一部で出てきた、十代の若者が主催するロックのイベントにゲストで出たPANTAさんが、「直前まで演るかどうか迷った」という、重信さんの詩に曲をつけた『ライラ』という歌を歌い、その前に、重信さんがどういう人なのかをかいつまんで話したところにつながります。
 パレスチナゲリラとともに戦った日本人がいたこと。そのことを間違っていると批判してもいい。でもそういうことがあったことは知っていてほしい。

 重信さんの詩に曲を付けるアルバムで、PANTAさんはオリジナルの詩で一曲だけ作ります。それはフセインの孫にあたる14歳の少年が、ひとりで200人の米兵と戦ったという、実話とされている話を基に生まれた「七月のムスターファ」です。
 PANTAさんは事件のあらましをこう語ります。イラクサダム・フセインの悪名高き二人の息子、ウダイとクサイ。ムスターファはクサイの14歳の息子。2003年7月にアメリカ軍がイラクのムスクを急襲し、この二人をミサイル弾などによる攻撃で殺され、生き残った14歳のムスターファは、一人で1時間の間、200名の米兵を相手に戦い最後は殺されたのだと。

 このドキュメンタリーは、頭脳警察が反体制的、政治的バンドとして時代の寵児となったことについて、ごく簡略的にしか紹介しません。そうした時代の盛り上がりについて証言する人もほとんど出てきません。
 
 あるのは、ファンでない観客からすれば、普通のちょっとカッコイイおじさんが、一個人として、氷川丸に乗った母やパレスチナで戦う女性と心の中でつながっているというお話だけです。
 氷川丸でのお母さんのことだって、ハッキリ証言する人もいない。でも、彼自身のあり方とつながっていればいいんです。

 監督の瀬々敬久さんは、京大出身で、全共闘世代より一回り以上下ですが、学生当時に全共闘の伝説について見てきたように語る人が若干いて、それがとても嫌だったと言います。

 問題なのは、「あの時代はよかった」ということではなくて、自分がどうあるかということではないでしょうか。

 もちろん、そこには物語がいつでも忍びこんできます。
 この作品の第二部では、PANTAさん自身の「氷川丸でライブをした時、子宮の中にいるみたいだった」という言葉もあることから、メイさんにとっての重信房子さんを、PANTAさんにとってのお母さんと重ね合わされているように観客は感じるはずです。

 しかしそれが第三部で、圧倒的にひっくり返されるのです。
 獄中の重信さんに歌を聞かせに行ったPANTAさんは、重信房子さんのことを「オレ自身だ」と言います。
 そこで、西部講堂で行われた頭脳警察の完全復活ライブの圧倒的な演奏と歌唱で、映画はそのままラストを迎えるのです。

 このドキュメンタリー三部作で、PANTAさんはなかなか、ストレートなロックとしての頭脳警察にエンジンがかかりません。

 でも蘇るときにはもう、理由などいらないのです。まるでフェリーニの『8 1/2』のラストシーンのように。あるいは死の病が、ある日突然理由もなくおさまっていく『感染列島』のラストのように。
 「俺」として立ったPANTAの貫き通る歌唱が響き渡ります。それが非常に美しい。

 最初期の『銃をとれ』での「嘘でかためられたこの国に」というフレーズやソロになってからのリフレイン「あやつり人形さ、人間なんて」(『あやつり人形』)、近作『俺たちに明日はない』での「オンリーワンとかナンバーワン どっちだっていいだろうよ バカらしい 遊ばれてんだから」と、PANTAの歌には一貫して、この世界は誰かに操られて、人々は踊らされているのではないかという認識がみられます。それは社会意識であるということにとどまらず、オブセッションに近いものになっているようにも思われます。
 しかしこうした世界観の持ち主にありがちな、なんでも他人のせいにするところは、彼にはありません。
 粉飾を何もかもはぎ取った時に、あのムスターファのように銃を撃ち続ける一人の<少年>がそこにいるからだと思います。

 西部講堂のシメで歌われる『オリオン頌歌 第二章』をかつて若い頃に聴いた時、マガイモノだらけのこの世界で、伝わらないで消されていく声がいっぱいあっても、紛れもなく俺たちの世界なんだ、ということが響きました。そしてこのことは、歌を受信する誰もが聴き取ることのできる、ごく普通の人に開かれた歌だと思います。
 PANTAの歌は難解だという人がいます。でも、人々を恋やエロスで誘惑したり、やたら前向きな生き方に発奮させる世のもっと知られている歌が、本当に普通の人に向かって開かれているといえるでしょうか。

 PANTAを「普通のおじさん」としてフラットに捉えたこの映画は、そのことで彼の<伝説>ではない、現在進行形としての価値を映し出している気がします。
 エンディングとともに流れるアンコール演奏の曲名が「歴史からとびだせ」で、最後までポップで終わるのがカッコイイです。

 まだ上映期間はありますので、一人でも多くの人にぜひ見に行っていただきたい映画です。
 http://www.cinematopics.com/cinema/news/output.php?news_seq=9585


予告編動画
http://www.youtube.com/watch?v=P0MdZvr3A-c

中央線通信・関連日記
http://d.hatena.ne.jp/PaPeRo/20080205