「あんにょん由美香」毎日映画コンクール授賞、その式と映画の光と影
今年も「毎日映画コンクール・ドキュメンタリ部門」の審査員を務めました。五期務めたアニメ部門から移って二年目になります。
9日は授賞式に行ってきました。
その模様やベストテンなどの結果に関しては、毎日新聞のサイトに任せるとして、ここでは自分が特別賞や、日本映画を代表する女優に授与される「田中絹代賞」、そして私が審査員の一人を務めたドキュメンタリ部門賞について、記述したいと思います。
授賞式に行ったのは、7年前に初めて審査員をやらせていただいたとき以来です。
その時は、都内の会場で、わりとアットホームな感じで授賞式が開かれていました。
今回は川崎市の全面協力により、フルオーケストラによる生演奏で受賞者が一人一人入場するという、豪華な会にリニューアル。
川崎は映画の街がキャッチフレーズで、多くの人材を輩出した日本映画学校も今度四年制大学になるそうです。
7年前の毎日コンクール授賞式では、田中絹代賞を八千草薫さんが受賞して、その変わらぬ、つやつやしたお美しい姿を仰ぎ見ることが出来ました。功労賞的な意味合いのその賞の7年後、今回は堂々の助演女優賞。ふたたびそのお姿が拝見できたのは感激でした。
しかし、いつまで若いのでしょうね、この方は。
『ガス人間』の藤千代ではないですが、現実の八千草さんも年齢を置き忘れてきたんじゃないかという感じがします……という内容の文章を、僕は7年前の日記(HP)にも書いた気が。
特別賞は故森繁久弥さんと、故水の江瀧子さん。
登壇された森繁さんのご子息は、まるでそっくりさんです。体型といいヒゲといい。
そして、水の江さんのご親族は「自分のことではないことで芸能界を離れることになりましたが、天国で喜んでいることと思います」
途中、絶句しそうになりながらも、そう語られました。
芸能界に戻ることなく旅立たれた水の江さんを看取ったご家族による、言葉少なくとも、あまりにも重いお言葉でした。
考えてみれば「自分のことではないこと」の当事者である三浦和義さんもいまはこの世にいません。
なんとも無常を感じます。
さて毎日映画コンクールのドキュメンタリ映画部門、今年の受賞作は『あんにょん由美香』です。
監督松江哲明さんは、ちょうど会場となったホールと同じ川崎の日本映画学校で撮った映画をかつて由美香さんから「まだまだね」と言われたのがこの作品を創った発端であり、『あんにょん由美香』は由美香さんの新作を作りたかったというのが本来の目的だと受賞の言葉を述べられました。
そして式の後のパーティでの松江監督の言葉は重いものでした。
日本映画が隆盛だと言われるけれど、地方の単館の経営者は心意気だけでやっているという現状を話されました。
DVDもいいけど若い人は特に、街で、松江さんがそうだったように「自分とキャッチボールできる映画」を見つけてほしいと思います。
パーティの後、松江さんは、渋谷でちょうどやっていた『ライブテープ』を見に行くと言っていました。式の華やかな調子から、街の息吹の中で映画が試される場所に戻り、自分を取り戻したかったのでしょうかか。
……なあんて思っていた自分も、考えてみれば完成したばかりのときに池袋ロサで、『ライブテープ』を見てから、もう一年以上たっていたことに改めて気付きます。ツイッターを読んでいても、毎日誰かの胸に『ライブテープ』が刺さっているのに気付きます。見に来た人に、これだけ高確率で突き刺さる映画があるでしょうか。
なのに映画館での上映期間に足を運ばないで、自分はこの映画を見たといえるのだろうか……そう思っていたところだったので 僕もシアターNに同行することにしました。
松江さんと一緒に見たい……というより、松江さんに触発されて、自分もあの映画ともう一度相対したいと思ったのです。ストーカーではありません、念のため。
映画館に入る前、美しい女の子がいました。入るのを迷っている彼女に松江さんが気さくに声をかけます。
そして映画を観終わったら、彼女は松江さんに映画に触発されたことを自分の言葉で一生懸命話していました。
ここでもキャッチボールがなされているなと思いました。
しかしそれでも、平日毎日満員とまではなかなかなりにくいのが現状です。見ればキャッチボールが出来る映画なのに……。
映画そのものの出来とか面白さだけでは突破できないものがあるのも事実です。賞もひとつの起爆剤ではあるけれど、でもそこで「よし」というほどお気楽な状況ではないのです。
『ライブテープ』を観終わって思いました。
映画を見ている時は、その時間にゆだねよう。
けれど、観終わって、触発されたと思ったら、自分から発言し、またいろんな場所にでかけよう……と。
『ライブテープ』は二度目に見ても、まったく記憶と違いませんでした。
けれど、より思ったのは、いまこの映画を、段取りはありながらもまわしっぱなしで撮っているということが、見ている時間そのものであり、見ている側と撮っている側と歌っている側が 同じ時間を作っていく映画なのだなということ。
そして、ラスト近くになって監督の松江さんが画面に姿を現し、それまで歌っていた前野健太さんと会話し、その個別性が浮き彫りになることで、観客も一つの個別性としての自分に立ち戻る。
映画を見た後に、誰かと語りたくなる、出会いたくなる映画だと思います。