公開日決定!ツァイ・ミンリャン監督『郊遊』

現代の台北。果てなき孤独と、子供たちの純粋な光の交差。
2013年、ヴェネチア国際映画祭で突然発表されたツァイ・ミンリャン監督の引退。最後の劇場長編となる『郊遊<ピクニック>』は、まさに監督の集大成。主演はツァイ作品の顔であるリー・カンション。その作品を支えて来た3人の女優も揃って出演している。デジタルの美を追求した映像と豊饒な音。映画史に残る驚異的な長回しのラストシーンにいたるまで、ワン・カット、ワン・カットに物語が立ち上がり、まさに「ここまで来た」と感嘆せずにいられない傑作である。

『郊遊<ピクニック>』(2013ヴェネチア国際映画祭審査員大賞受賞/2013金馬奨 最優秀監督賞・最優秀主演男優賞受賞)の公開が、9月6日(土)からに決まりました。

映画館はシアター・イメージフォーラム、シネ・リーブル梅田他、全国順次公開となります。

メルマガ『映画の友よ』では、6月5日に配信された13号で、このツァイ・ミンリャン監督引退作について書いています。また7月18日に配信された16号では、来日したツァイ・ミンリャン監督にインタビューを行いました。 
http://yakan-hiko.com/risaku.html

このたび、正式な公開日の発表を記念して、13号で書いた時の文章を以下に全文掲載したく思います。

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ツァイ・ミンリャンと<映画の終わり>
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『愛情萬歳』『河』『西瓜』などで知られる台湾の監督ツァイ・ミンリャン蔡明亮)の世界を初めて知ったのは、そのデビュー作『青春神話』(92)が日本で公開される前の、試写においてであった。今年50歳になった僕がまだ20代後半。ライター生活を始めて一年目の事である。

『青春神話』は、予備校に通う平凡な少年が、街で偶然、ゲームセンターの機械の基盤を勝手に外して、それを転売して稼いでいる不良少年グループに遭遇する。

自分とはまったく違う青春を送る不良少年グループを見た主人公は、彼らの行動を密かに追いかけ、乗っていたスクーターを壊してみせたりする。だがついに、お互いの接点を持つことなく映画は終わる。ドラマチックなことは何も起こらない。

現代でこそ<童貞>や無力な青春を主題にする青春映画も珍しくなくなったが、不良だったりイケてたりする若者が活躍するのが当時当たり前の青春映画だったとするなら、この映画はそれを見ている僕のような平凡な若者がフレームの中に入り込んでいるのが新鮮だった。

不良グループの一人が寝泊まりする部屋は、いつも水浸しになっており、その上にベッドを敷いて寝る描写があった。

ツァイ・ミンリャンがその後繰り返し描くことになる、急速な都市開発の中で、たえず巨大な工事現場に生きているような感覚を描く出発点となるものでもあった。ツァイ・ミンリャンはこれを「足下の土台なしに、不安と不確実のただなかを漂流しているような感覚」と自ら語っている。

そこには、人が廃墟のように打ち棄てられたまま生きている世界が、現在形で捉えられていた。しかしどこか、そこにしか自分たちの原風景はないと言っているような気がした。

『青春神話』に強く惹かれた私は、以後ツァイ・ミンリャンという名を記憶に刻みつけた。

僕がこの映画を見た93年は、日本でもバブルが弾ける前夜で、見た目の派手さの方ではなく、もともと見えていたはずの、足元の現実の不確かさの方に時代の焦点が当たり始めた時代である。

まだまだ『波の数まで抱きしめて』のようなバブル景気を象徴する映画も公開されていた一方、ピンク映画の四天王と言われた瀬々敬久佐藤寿保、佐野和宏、サトウトシキといった当時の新鋭たちの映画には、社会に置き忘れられてきた、廃墟感のある風景の中で、その不確かさと未分化な人間のありようがいち早く提示されていた。

詩人であり映画批評家、そして映画監督でもある福間健二は、こうした映画のありようを<アジア的>と呼んだ。福間健二のこの言い方は、世の中にはエンタテイメントに見合った「大きな映画」もあるが、そうしたものの裏にはいくつもの「小さな映画」があり、その豊かさから現実を見る……という意味合いがあったと思う。

海の向こうでツァイ・ミンリャンという才能が現れた時、僕はそんな<アジア的>な感覚によって、実際に日本以外の国と感覚的に接続出来たような……いささか恥ずかしい言い方をすれば、同志的な感情を一方的に抱くことが出来たのを思い出す。

あれから20年経って、ピンク映画四天王の佐藤寿保瀬々敬久はピンク映画を離れた後も精力的に作品を作り続け、今年に入ってからも新作『華魂』『マリアの乳房』を世に問うている。

その一方で、ツァイ・ミンリャンは、早くも「引退」すると表明した。

彼がもう引退しなければならないのだとするなら、彼とほぼ同じ年数物書きを続けていた私はどうなるのか?

いったい、表現者の「引退」とは、何を意味するのだろうか。57年生まれで年齢的にもまだ若く、国際的な評価も受けている監督の引退とは?


◇最後に残ったのは「顔」

そんな興味もあって、ツァイ・ミンリャンが自ら「引退作」と呼ぶ監督十作目の映画『郊遊<ピクニック>』の試写に、私は足を運んだ。
ツァイ・ミンリャンの映画の試写を見に行くのは、デビュー作以来20年ぶりである。

『郊遊』は、空き家から空き家に移り住んでいる父と、二人の子どもがメインの登場人物である。水道も電気もない空き家にマットレスを敷いて眠る彼らは、時には公衆トイレの水道で身体を洗ったりもする。

父が不動産広告の看板を持って台北の道路に立つ「人間立て看板」の仕事をしている時、子どもたちはスーパーマーケットの食品売り場で試食を食べたりしている。置かれた状況を逆境とも思わず、郊外で遊ぶピクニックのように無心な子どもたちの一方、父には、一日の大半を無為に過ごす徒労がにじんできているようだ。

風が吹き、雨が頬を打っても、黙って看板を持って立っているだけの毎日。それはまるで木や壁のようだ。子どもの時に覚えた、南宋時代の武将・岳飛の歌「満江紅」(マンジョンホン)を口ずさんでみても、勇猛果敢なそのフレーズは虚空へと吸い込まれていく。思わず知らず涙が流れてくる。「満江紅」は台湾の40歳過ぎた世代であれば、誰もが馴染みのある詩だという。

この映画は、頭から順番に見ていっても、ストーリーらしいストーリーは語られない。シークエンスだけが描かれ、その間の事は観客が想像するしかない。

『郊遊』においてツァイ・ミンリャンは、発想から練っていくうちに物語を削ぎ落し、プロットやナラティヴや構成や、登場人物さえも徐々に切り捨てていった……とプレスで語っている。

たとえば、彼ら父子をめぐって登場する、父からすれば別れた妻であり、子どもたちの母親である役を、ヤン・クイメイ、ルー・イーチン、チェン・シャンチーという三人の女優が演じ、最終的には、彼女たちが演じているのが同じ人物かどうかさえ、ツァイ・ミンリャンにとってはどうでもよくなってしまったという。

そして最後に残ったのは、俳優の「顔」だった。

役者が泣く芝居をする時、涙が出るまでの時間を、ツァイ・ミンリャンは省略しない。時には十数分の長廻しになる。涙が乾くまで写す。

役者その人の表現として、内側から感情が起きているとするなら、役柄というものはあくまで依代であって、表現されているのはその人なのかもしれない。

ドラマツルギーに従うものとしてではなく、そこにある表現を見つめていこうとすること。デビュー作『青春神話』から主演し、本作でも父親役を演じるリー・カンション(李康生)ら、俳優たちにツァイ・ミンリャンは全幅の信頼を置いている。


◇そのものが、そこになければならない

『郊遊』を見た僕の中に浮かんだフレーズは、「それそのものが、その形で発想されたものとして、映画の中で存在しなければならない」というものであった。

廃墟の壁に描いてある絵を見つめる女。その女の背中越しに後ろから見つめる男。
女が見つめているのは、河原の風景が廃墟の壁に描かれた、どこの誰が描いたともわからない絵である。

それを見つめていたことが観客にわかるのは、俳優の顔をしばらく映し出してずいぶん経ってからようやく示される、切り返しの場面になってからだ。

男が後ろから抱きしめても、彼女は応えない。女の頬から涙が伝わる。
やがて女は去り、男が一人残される。

女が見ていた絵は、映画のために用意されていたものではなく、ロケハンで偶然見つけたものだという。

映画の撮影が終わった後に、この絵がガオ・ジュンホン(高俊宏)という画家によるものだとわかった。数年前から、廃墟の中に絵を描き始めていたガオ・ジュンホンは、展覧会などでそれを発表するつもりは一切なく、人々に偶然に出会ってほしいと願っていた。まさに、ツァイ・ミンリャンはそうやって彼の絵と出会ったというわけだ。

「さらに興味深いことに、私が出会った絵は、ジョン・トムソンという名のイギリス人が1871年に撮った古い写真をもとに描かれたものだった。一世紀以上前の台湾南部の原初的な風景を写した写真だ。写真の左角には、二人の台湾先住民の子供が写っていた。しかし、高俊宏は子供たちを外して絵を描いた。そして偶然にも、私は映画の中で、この廃墟のまわりで歩き回る二人の子供たちを登場させたのだ」(プレス掲載のツァイ・ミンリャンの文章より、以下同)

僕はここで、ツァイ・ミンリャンに映画の神が微笑みかけ、絵にまつわる歴史との偶然の出会いを手に入れたことの奇跡を強調したいのではない。

それが何を意味しているのかわからない段階から、ツァイ・ミンリャンにとって、それは撮らねばならないものだったということが、重要だと思うのだ。

「驚くべき、そしてとても感動的な絵だった。おそらくそれは、孤独な都市の顔の表情、もしくは、私たち人間世界の現実と幻想の両方を写す鏡。その絵を描いた画家が誰なのか、私には見当もつかなかったが、これを撮影しなければならないと、すぐにわかった」


◇記号は記号にすぎない

試写で『郊遊』を見た時、ちょうど僕は、ロードショー公開されていた『黒四角』という映画を見たばかりだったことを思い出した。

この映画は、日本人の監督奥原浩志が中国で作った作品である。
北京の芸術家村に住んでいる画家のチャオピンは、ある日出かけた展覧会で、ただキャンバスを真っ黒に塗っただけの「絵」を見る。その場ではバカにするが、帰宅した後、自分のアトリエで創作に行き詰ったチャオピンは、描いていた絵を黒く塗り潰し、フテ寝してしまう。

そしてフト目覚めて外を見ると、遠い空に黒い板が飛んでいた。
追いかけたチャオピンは、荒涼とした大地に降り立った黒い板の向こうから裸の男が出てくるのを目の当たりにする。

服を着せてやり、家に連れて帰るチャオピン。
チャオピンは、彼が日本人だと思う。

男は、やがてチャオピンの妹・リーホワと親しくなる。リーホワは男を一目見た瞬間、どこかで会ったことがあると直感する。

彼らと男の間には、かつて中国と日本の間で起きた戦争が横たわっていた。

男は、60年前、中国が戦地になっていた頃の日本兵の分身的存在だったのだ。

当時の中国にも、チャオピンとリーホワそっくりの兄妹が暮らしていた。彼らを同じ日本軍の目から隠して、庇ってやり、やがて撃たれて倒れる男。

日中の交流にかつての戦争を、時空を超越してリンクさせ、その装置として「黒四角」というブラック・ボックスを置いた作品だ。

そこに見出されるものは、ひょっとしたら、「象徴性」という意味では、ツァイ・ミンリャンが『郊遊』で廃墟の絵を通して出会ったものと通じるものがあるかもしれない。

しかし、印象はむしろ真逆だ。

真っ黒に塗り潰した象徴としての黒四角は、文字通り記号でしかない。
日中の友好や断絶を思わせぶりにそんなフォルダに入れることで、何か高尚なものを表現した気に、この映画の作者がもしなっているとしたら、ずいぶんお気楽な話だと言うしかないし、その薄っぺらさに寒々しい気分にすらなってくるのである。

だが僕はこの映画を見ることで、ツァイ・ミンリャンがビルの廃墟でフト出会った絵は、何かの象徴であるという前に、まずそれが、そのものとしてそこになければならなかったのだということが……否それだけが、伝わってきたような気が改めてしたのである。


◇映画と出会えなくなる日が来る?

ツァイ・ミンリャンは引退する理由として、次のように語っている。

「私は、映画に倦んでいた。近頃のいわゆる、エンタテイメント・ヴァリュー、市場のメカニズム、大衆の好みへの絶え間ない迎合、それらが私をうんざりさせた。私は、映画をつくり続ける必要を感じなくなっていた。もっと乱暴に言えば、観客をパトロンとして期待する映画をつくる必要を感じなくなった」

『郊遊』の中で、不動産の広告を持って道路脇に立っている男たちを見た時、僕の中で、何かが了解された気になった。

台北では十年ほど前から出てきはじめ、その後至るところで見られるようになったという「人間立て看板」。一日八時間労働で、一時間300円台、一日で3000円以下のわずかな報酬のこうした仕事をせざるを得ない失業者が年々増大しているという。

それを、ツァイ・ミンリャンは「まるで彼らの時間を無価値にしてしまうような仕事」だと言う。

一人の観客が、一つのスクリーンで、一つの出来事と新たに出会うことのない、あらかじめ客層が約束された、逆にいえば客層が求めるオーダーとしての想念をただ映像化する、約束事としての映画。

それはもう、宣伝用の立て看板を持って路上に立っているのと、変わりがないのではないか。

そこにしか映画が成立しなくなっているのというのなら、自分はもう、そこに居なくていい。ツァイ・ミンリャンはそう思ったのかもしれない。

ツァイ・ミンリャンにとっての最後の映画は、映画という文化を抱える社会に生きる我々の行く末をも照射する。

否、もうその未来は来ているのだと、ツァイ・ミンリャンは宣告したのかもしれない。

僕が映画メルマガを始めたのも、自分にとっての映画が、ツァイ・ミンリャンにとっての映画と同じようなものになってしまう前に、その行く末に立ち会いたかったのかもしれない。

しかし、活字の世界もまた同じである。あらかじめ読む層が決まっていて、そこに向かって予定調和な言葉を送り届けるだけのものになってしまったら、その世界にはもう、何の刺激もなくなっているに違いない。

『黒四角』で唯一面白かったのは、北京を写した情景で、そこら中に歩いている野犬だった。撮影用に用意されたものではなく、方々に居た実際の犬を写したものだという。

『郊遊』にもまた、壁に絵の描かれた廃墟には、無数の野犬がたむろしていた。

野犬と言っても、凶暴な唸り声を上げることもなく、静かに、当たり前のようにそこにいる。町の様相は日々変わっても、廃墟の中には、彼らが音もなく集まってくる。

そしてそこに広がった、古の台湾を描いた絵とツァイ・ミンリャンは「偶然」出会った。

一人の観客が、一つのスクリーンで、一つの出来事に新たに出会う可能性が、そういう場所から、またいつでも始まっていくことを、まだ僕は信じている。


『郊遊<ピクニック>』
監督 ツァイ・ミンリャン
脚本 ドン・チュンユー
ツァイ・ミンリャン
ポン・フェイ
撮影リャオ・ペンジュン
サン・ウェンチョン
ルー・チンシン
出演 リー・カンション
ヤン・クイメイ
ルー・イーチン
チェン・シャンチー

原題:郊遊 英語題:Stray Dogs 

2013年|台湾、フランス|136分|DCP|カラー|1:1.85|中国語 後援:台北駐日経済文化代表処 配給:ムヴィオラ

公式サイト http://moviola.jp/jiaoyou/
TOPページで、本文中に触れた壁画が見れます。

※メルマガ『映画の友よ』16号(7月18日に配信)では、来日したツァイ・ミンリャン監督にインタビューを行いました。
以下からバックナンバーで読むことが出来ます。
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