映画『ゴンドラ』との再会

PaPeRo2010-02-05

  当時評価は必ずしも低くなかったのに、情報過多の現代、埋もれてしまった感のある映画ってあると思うのですが、この作品もその一本だと思います。

 先日部屋を片づけてたらカビだらけのテープが出てきた映画「ゴンドラ」。二十年以上ぶりに見ました。
 
 ゴンドラでビル掃除をしている青年と、小学校五年生の少女の道行きを描いた映画です。

 当時僕はこの映画を正直やや失笑気味の対象だと感じていました。あんまりにもベタなドラマだと思っていたのです。

 無機的な都会で孤立する少女が離婚家庭に育っているという「わかりやすさ」。ビルの窓を掃除しても中の現実に手を触れられないという疎隔感の「わかりやすさ」。

 漁師町で育った青年が ゴンドラで清掃していると、下界が海に見えるという「わかりやすさ」。

 窓の中の見知らぬ日常。その中に居る人と交流を持ったことはない彼にとって、少女がその最初。

 少女が描いていた絵は、青年から聞いたイメージで、ビルの下に青い海が広がっている。それを見た青年は、彼女を自分の故郷の海へ連れて行く。
 郷里には老いた両親がいて、少女に優しく接してくれる。少女が「なぜ優しくしてくれるの?」と訊くと「弱いからさ」と答える青年……。
 ちょっと、あまりにもナイーブすぎるのではないかと。

 80年代当時、文字通り都会で一人の若者として生きていた自分は、ベタな「田舎礼讃」と思い、ややついていけないものに感じました。

 夕暮れの海に浮かべた小舟に乗って少女にハーモニカを吹かせ、聞き入る青年……というラストにも、ロマンティックすぎるものを感じました。

 二十年ぶりに見て、印象が変わっていたところと、そもそも記憶違いだったところが結構ありました。

 青年は彼女の親にも誰にも黙って少女を都会に連れだします。
 自分の両親には職場の清掃会社の社長の娘だといつわって、女の子を家に連れてきた青年。
 この言い訳を自分は忘れてました。両親は老けてボケすぎたので、彼らを何も言わずに迎え入れていたような記憶になっていたのです。

 青年の老母と少女がお風呂に入り、背中を流し合うヌードシーンがありました。これは当時直視したくなかった。身体の崩れたおばさんのヌードは見たくなかったし、幼女のヌードは見ていいのかどうかというのがあり、別の意味での「ヤバイもの」のダブル攻撃に感じられたのです。
 でもいまは素直に見れました。というより、世の中の映画には若い女の子のサービスカットとしてのヌードばっかりで、こういう風に当たり前のように女性の裸が出てくるものがもっとあってもいいとすら思えてきたのです。

 そして青年の老父が、最初に見たときの記憶以上に老いさばらえ、ヨイヨイになっている無残な姿にショックすらおぼえました。
 きっと自分の記憶の中には「ないこと」にしてしまっていたのでしょう。  

 また、青年が少女を海に連れて行く直接的な目的が、「少女の大切にしていた文鳥の弔い」にあったことを、僕はまったく忘れていました。

 かつて、死んだ文鳥を一緒に埋めに行った二人。でも少女にとってその思い出の場所はもう彼女の住んでいた家ではなく、埋葬を取りやめた少女は、母親の子ども時代から大事にしていた弁当箱に文鳥を入れておく。それを知った母親は激怒します。通じ合わない母子関係。
  青年は、生命がそこに還っていく場所である海に文鳥の遺体を連れていこうとするのです。

 この文鳥は、劇中でどんどん腐っていきます。少女にとって大切な存在でも、母親にとっては臭い死体です。
 青年の老父はよだれをたらし、満足に歩けず、老母は崩れた裸体を晒しています。

 ロマンティックに、「きれいなもの」しか見ていなかったのは、若さゆえこの映画に陳腐なパターンしか読みとれなかった、かつての観客だった僕自身なのです。

 そして少女そのものの存在。学校のプールの時間、みんなの見ている前での経血が鮮烈な赤となって刻印されるシーン。以後、クラスメイトの女子は彼女を遠巻きにして、囁き合います。
 みんなだって同じ身体を持っているのに、ないことにしてしまう感性。
 この少女が、開巻十分後、初めて喋るのですが、見事にダミ声なのが印象的です。

 後半、青年は少女を連れて、えんえんと歩きます。海岸線を、岩場を、ひたすら歳の離れた男女が歩いていくというのが印象的な映画です。

 手をつなぎながらというのではなく、青年の後についてひたすら歩き続ける少女。こけそうになった時だけ手を差し伸べ、水場になったら誘導して一緒に泳ぎます。

 最初に見た時は、なんでこんなに海岸線を歩く場面が長いのかと思いました。
 もうちょっと短くてもいいのではないかと、思い入れで時間を引き延ばしているような気がしていました。

 しかし、いまはこの映画が描くもののために必要な時間なのだということがわかります。

 この映画が求めているもの。それは、映画の中での時間が積み重なっていく内に立ち上がってくるもの。

 僕はこの映画のラストは、ハモニカの音で終わるのかと覚えていましたが、ハモニカが主旋律でありながらも途中から伴奏が加わっていくのだったと今回気付きました。

 老父は二度と元の漁師に戻ることはないし、少女の両親の復縁もないだろうし、そもそも勝手に少女を連れだした青年の行動は大人として問題視されるだろうし、親にその中から仕送りしていたビル清掃の仕事だってクビになってしまうかもしれない……。

 現実は何も解決されていない。でも、だからこそ、この映画の中の時間は一つの「描くに足るもの」として完成されていく。その時間を、観客も一緒に体験できる。

 映画を見ていることの幸福と、出会い直すことが出来ました。


 「ゴンドラ」
 監督伊藤智生、撮影瓜生敏彦、脚本伊藤智生・棗 耶子、プロデューサー貞末麻哉子、出演界健太/上村佳子/木内みどり出門英佐々木すみ江佐藤英夫
 http://www.motherbird.net/~edix/_gondora/index.html